身三・口四・意三の合わせて十業となり、身・口・意は互いに順じ随います。十業が造作された後、これらの業行は刹那刹那に滅していき、業行の種子が送り出されて作用すると消滅し、この刹那の業行は無くなります。最終的に行為全体の造作は消滅しますが、業種は残され、記録されます。誰が記録するのでしょうか。私たちに最も密接な阿頼耶識が記録するのです。なぜなら、阿頼耶識が種子を出力し、再び種子を回収するからです。種子が造作した業行も同時に阿頼耶識に蓄えられます。阿頼耶識は公正無私であり、「五蘊は私が造ったもの、私に属するものだ」とは言わず、その悪行を隠蔽しようとはしません。五蘊がどんな悪業をなしても業種を記録せず出力せず、五陰に悪果が生じないようにすることはありません。阿頼耶識にはそのような心行はなく、カメラのように誠実で偽りがなく、五蘊が造作する一切の業行を機械のように自動的に記録し、いかなる選択もせず、全ての行為造作を細大漏らさずありのままに記録します。記録された後、種子として心体に存在し、因縁条件が具足すると、業種が出力され、種子は根を張り芽を出し、結果をもたらします。そうして果報が現れます。阿頼耶識が衆生の業果をありのままに実現することについては、極めて多くの実例で説明できます。例えば、もし甲が前世で乙と悪縁があった場合、乙が今世で甲の家に生まれるのは、因縁が熟して種が芽を出したと言えます。子供が成長するのは花が咲いたようなもので、時節が来ると乙は甲を陥れ復讐し、甲の果報が現れます。これまでの過程は全て花・芽・枝葉のようなもので、果報が到来した時、甲はこの子供が何のために来たのか、つまり借金の取立てや復讐のために来たのだと理解する可能性があります。ほとんどの人は報いを受けた後もこの道理を理解せず、それ以前には全く気づかず、このような特殊な縁があることすら全く知りません。なぜなら前世の悪縁によって二人が一か所に集まり、業種を清算するのですが、二人ともそれを知らないからです。
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