衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月17日    月曜日     第1開示 合計1621開示

父子合集経選講(一〇二)

身三・語四・意三を合わせて十業とし、身口意は相順相随する。十業が造作されたのち、これらの業行は刹那刹那に滅していき、業行の種子が送り出されて働きを起こすと滅し、この一刹那の業行はなくなって、最後には行為造作全体が消失する。しかし業種は残され、記録される。誰が記録するのか。それは私たちと最も親密な阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が記録するのである。神様は種子を出力し、再び種子を回収するのであり、種子が造作した業行も同時に阿頼耶識の中に保存されるからである。阿頼耶識は公正無私であって、神様は五蘊が自分の造ったものであり自分に属するからといって、その悪行を隠匿しようとはなさらない。五蘊がどんな悪業を造っても業種を記録せず業種を出力せず、五陰 (pañca-skandha) に悪果を受けさせない、というようなことはしない。阿頼耶識にはそのような心行はない。神様はビデオカメラのように誠実で欺くことがなく、五蘊が造作したすべての業行を機械的に自動で撮影・録画するように記録し、いかなる選択もせず、あらゆる行為造作を事の大小にかかわらずありのままに記録する。記録されたのちは、種子として心体の中に存在し、因縁条件が具足したのちに業種が出力されると、種子は生根発芽し、実を結び、果報が現れる。阿頼耶識が衆生の業果をありのままに実現するという事については、極めて多くの実例で説明できる。たとえば、甲が前世で乙と悪縁があったとすれば、乙は今世、甲の家に生まれ、これは因縁が成熟して種子が芽を出したと見なせる。子が成長するのは開花と見なせ、時節が到来すると、乙は甲を陥れて報復するようになり、甲の果報が現れる。ここまでの過程はすべて花・芽・枝葉であり、果報が到来したとき、甲はこの子が何をしに来たのか、もとは借金取りに来たのだ、報復に来たのだと悟るかもしれない。大多数の人は果報を受けたあともこの道理をわきまえず、それ以前にはまったく気づかず、このような特殊な縁があることをまったく知らない。前世の悪縁によって二人が一か所に集まり業種を了結するのであるが、二人ともそれを知らないのである。

——生如法師の開示
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