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日常法話

2019年06月17日    月曜日     第2開示 合計1622開示

所謂の我見とは意根の我見である

『雑阿含経』第五巻109

云何见识即是我?謂六识身——眼识,耳、鼻、舌、身、意识身。于此六识身一一见是我,是名识即是我。云何见识异我?见色是我,识是我所,见受、想、行是我,识是我所,是名识异我。

まず「我」という概念をはっきり把握しなければ、五蘊十八界が無我であることを如実に如理に観行することはできません。何が我であるかを知らなければ、どのように観行して断我見するのでしょうか?例えば、部隊が装備を整えて敵を殲滅しに出発しようとするのに、敵が誰でどこにいるのかを知らなければ、どのようにして出発して敵を殲滅することができるでしょうか?

「我とは誰か」をはっきり把握してこそ、この我に断我見させることができます。我が誰であるかを知らなければ、どのようにしてその我に断我見させることができるでしょうか?例えば蛇を打とうとするのに、蛇の七寸(急所)がどこにあるかを知らなければ、どうやって蛇を打ち殺すことができるでしょうか?

上の文を解説します。

解釈:どのように識がすなわち我であると見なすのか。識とはいわゆる六識身――眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識身のことです。誰がこの六識身を我と見なすのでしょうか?もちろん第七識である意根です。意根が六識身を我(自分)と見なしているのです。

仏は、この六識身に対して、六識身を我(自分)と見なすこと、六識身を我(自分)と認めることを説かれました。このような知見・観点を持っているのが意根であり、これを識がすなわち我(自分)であると呼ぶのです。

六識身が我(自分)と異なると見なすとはどういうことでしょうか?それは、意根が色蘊を我(意根)であると認め、識蘊は我(意根)のものであると認めること、あるいは受想行蘊を我(意根)であると認め、識蘊は我(意根)のものであると認めることです。これを識蘊が我(意根)と異なるというのです。

仏はこの小さな段落の中で、確かに「我とは意根であり、意根こそいわゆる我である」と説かれているのです。意根は色受想行識を自分であると見なしているのであり、あるいは自分の所有する機能・作用と見なしているのです。ならば断我見とは、このいわゆる意根という我に断我見させるべきものであり、意根がもはや色受想行識を我および我の所有物と見なさなくなれば、我見は断たれるのです。

このことから分かるように、仏が阿含経を説かれたとき、意根を説かなかったのではなく、意根が我であると説かなかったのでもありません。最初から最後まで、仏は意根に我見を断除させようとされたのであり、色受想行識を我とする我見を断除させようとされたのです。

——生如法師の開示
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