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日常開示

2019年06月17日    月曜日     第3 回の開示 合計1623回の開示

『雑阿含経』巻第五──一〇九

比丘たちよ、真理を見た聖なる弟子が最上の邪見を断ち切り、未来世において永遠に再び生じることがないとは如何なるものか。無明なる凡夫は色を我と見、我と異なるものと見、我が色の中に在ると見、色が我の中に在ると見る。受・想・行・識を我と見、我と異なるものと見、我が識の中に在ると見、識が我の中に在ると見るのである。

「如何にして色を我と見るか。地一切処の正受を得て観じ、『地は即ち我なり、我は即ち地なり、我と地は唯一無二にして異ならず別ならず』と念じる。水・火・風・青・黄・赤・白の一切処の正受も同様に観じ、『行(現象)は即ち我なり、我は即ち行なり、唯一無二にして異ならず別ならず』と念ずる。かくの如く一切処に於いて一一に我を計量する、これを色即我と名付ける。如何にして色を我と異なると見るか。受を我と見る者が、色を我の所有と見、或いは想・行・識を我と見て色を我の所有と見る。

「如何にして我の中に色あるを見るか。受を我と見て色が我の中に在ると見、想・行・識を我と見て色が我の中に在ると見る。如何にして色の中に我在ると見るか。受を我と見て色の中に住し、色に入りて四体に周遍する。想・行・識を我と見て色の中に住し四体に周遍する、これを色中我と名付ける。

「如何にして受即我と見るか。六受身――眼触によって生じる受、耳・鼻・舌・身・意触によって生じる受――この六受身を一一に我と見、我は受なりと知る、これを受即我と名付ける。如何にして受を我と異なると見るか。色を我と見て受を我の所有と見、想・行・識を我と見て受を我の所有と見る、これを受異我と名付ける。

釈して曰く、仏は説きたまう:比丘たちよ、如何にして我見を断じた後の見地を得るか。聖弟子たちが最上根本の凡夫邪見を断じ、未来世に永遠に再生起しないとは。

無明なる凡夫は色蘊を我(意根)と見、我(意根)の所有と見、我(意根)が色蘊の中に在ると見、色蘊が我(意根)の中に在ると見る。受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を我(意根)と見、或いは我に関わるものと見、我(意根)の所有と見、我(意根)が受想行識蘊の中に在ると見、受想行識蘊が我の中に在ると見る。

如何にして色蘊を我(意根)と見るか。地大一切処の正受を得て観じ、『地大は即ち我なり、我は即ち地大なり、我と地大は一体無二にして差別なし、地大は我の所有なり』と念ずる。水・火・風・青・黄・赤・白の一切処も同様に観じ、『色身の運行は即ち我なり、我は即ち色身の運行なり、我と色身の運行は一体無二にして差別なし、色身の運行は我の所有なり』と念ずる。

かくの如く一切処に於いて一一に我を計量する、これが凡夫の名色を我(意根)と見る我見である。何故意根が色身の運行を我と我の所有と見るか。意根が色身を運行せしめんと欲し、また意根が色身の運行を主宰する故である。色身が運行すれば、我が運行したと認め、能く運行する機能作用を我の所有と見る。

例えば、眠りから覚めた時、意根が目覚め色身を活動せしめんと欲すれば、第八識が意根に順じて六識を生じ、色身は起き上がる。ここに意識の関与は無く、意識が目覚めんと欲したのではない。昏倒後、六識が消滅しても、意根は第八識と共に色身と六塵を了別し、色身が活動可能と認めれば意根は色身を覚醒せしめる。この時意識は存在せず、意根が主宰して色身を活動せしめる。色身が活動すれば意根は我が活動したと認め、能動の機能を我の所有と見、色身を我と見る。

如何にして色蘊を我ならず我の所有と見るか。受蘊を我(意根)と見る者が色蘊を我の所有と見、或いは想蘊・行蘊・識蘊を我と見て色蘊を我の所有と見る。

如何にして我(意根)の中に色蘊あると見るか。受蘊を我と見れば色蘊は我の中に在り、想蘊・行蘊・識蘊を我と見れば色蘊は我の中に在る。

如何にして色蘊の中に我(意根)あると見るか。受蘊を我と見て色身の中に住し、色身に入り四肢全身に周遍する、これを凡夫の名色中有我(意根)と見る所以である。

——生如法師の開示
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