衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年05月27日    月曜日     第1 回の開示 合計1557回の開示

意識の回想は意根による制御を受ける

問:ある人が「末那識の攀縁作用は極めて広大で深遠であり、縁とならざるものはない。そのため末那識は何事も記憶できず、この世における過去の事柄の記憶は常に意識の知覚心の働きであり、末那識とは無関係である」と述べています。この説は正しいでしょうか。

答:そのような説は正しくありません。末那識が縁とする法は広範であるが、専注することは比較的困難です。しかし末那識が経験した人・事・物は依然として記憶されており、ただ意識のような形で回想することはできません。末那識が自らの記憶した法を処理しようとする時、必ず意識に回想させなければなりません。意識が回想して初めて六識が具体的に処理を行うことができ、もし回想できなければ処理もできません。これは末那識には六識という工具がなく、自ら造作することができないためです。

もし末那識が記憶した法に対して何ら処理を行う必要を感じず、重要性や必要性を認めなければ、意識に回想させようとはしません。意識が回想するかどうかは完全に末那識の指揮・動員・制御にかかっており、末那識の意思によるものです。末那識が前世で経験した事柄についても、特別な対応や処理が必要な場合は意識に回想させますが、意識は経験していないため回想できず、不可解で不可思議に感じたり、何となくぼんやりとした状態になります。意識が聡明な場合は半ば理解し半ば理解できず、分かったような分からないような状態になります。例えばある場所を歩いている時、意識は非常に親しみを感じるものの、いつここに来たか思い出せません。しかし末那識は知っており、自分が前世でこの地を訪れたことを覚えています。現在この場所を通り過ぎると、末那識は意識にも知覚させ感じさせようとしますが、意識は回想できず、末那識の暗示を受けて何となく経験したような気がするのです。人に出会う場合も同様です。

三、五歳以前に慣れ親しんだ玩具や事物に接する時、意識は親しみを感じ特別な感情を抱きますが、はっきり説明できません。これは末那識が意識に暗示を与えており、末那識がこれらの事物を知っているからです。ただ回想はできず詳細は分からないため、意識に警覚を促すのです。よって末那識には必ず記憶機能が備わっており、記憶はするものの回想はできません。意識が神通力を得た時、末那識に依って生生世世の事柄を回想することができるようになります。しかし末那識が必要としない場合、意識が神通力を持っていても回想や了別を行わず、依然として末那識の指揮と制御を受けるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

執着の有無は意根の全体心所法の機能作用です

次の記事 次の記事

記憶の問題

ページのトップへ戻る