滅尽定中の阿罗汉は、既に五蘊我執を滅除した。否则、四果を証得できず、滅尽定を修出することもできない。阿罗汉が四禅定を修到した時、既に五蘊の束缚を受けず、生死自由となり、行きたい時行き、留まりたい時留まる。滅尽定を修出すると更に自在になる。
阿罗汉が初禅定に入った時、人我執は既に無くなり、受、想、思心所を執せず、色身を執せず。受、想両心所を滅去する時必ずではない時に執せず。執著与否は意根の整体心所法の功能作用であり、受、想、思单个心所法の功能作用ではない。法執も、意根の整体心所法の功能作用である。例えば、滅尽定中の意根には作意、触、思心所法があり、全て法の功能作用であり、单个思心所のみ法執があるのではない。
しかし、諸仏の意根は既に法執を滅尽した。其意根には五遍行心所法だけでなく、五別境心所法と善十一心所法もあり、心所法は如此之多だが、其执著性反に滅尽した。仏の意根は法執無く、思心所は依然不断運行。無垢識は意根の思心所を了別し、意根と配合して十方无量諸仏国土を变现。実に如来蔵は意根全体心所法を了別でき、思心所法には抉择の功能作用あり。如来蔵了別後に、意根の抉择に従って意根と办事し、意根所需的一切法を呈现する。
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