大王よ。あの無辺称王は、さらに思惟を巡らせた。『私の有するすべての善根の力によって、四天下に黄金の雨を降らせよう』と。この念いを起こすや、四天下のすべてに黄金の雨が降り注いだ。なぜならば、これらはすべて無辺称王が過去世において、無数の衆生と共に善業を修めたことによって獲得したものだからである。
親子にも共業がある。もし親子に共業がなければ、例えば親は貧窮の果報を受けるべきであり、子は富貴の果報を享受すべきである場合、子が成長して家を離れ、別の地で富貴に至っても、親はそれを享受できない。これは彼らに共業がないことを説明している。衆生が共に地球上で生活しているように、地球上の人類には共業がある。あるいは小さな都市に住んでいれば、その都市の人々にも共業がある。したがって、我々が富貴の果報を得ようとするなら、求める必要はない。ただひたすら布施を行い福を修めればよい。誰が修めれば誰が得、修めなければ得られない。善業には際限も限量もない。この富貴の業をあなたが修めたからといって、私の分がなくなるわけではない。誰が修めれば誰が得、すべての人が修めれば、すべての人が得るのである。
ゆえに共業は衆生を一つの場所に集わせ、不共業は衆生をそれぞれ分離させる。極楽国土の衆生の共業は、天衣や天食が自然に現れ、至る所に七宝が散り、黄金が地を敷き詰めるという果報を感得させる。それが極楽国土の衆生の共業である。一方、地球人は黄金を宝物として身に着ける。地球人の福報が享受され尽くして残り少なくなると、地球上で最良のものは鉄となる。その時代の人類は、一片の古い鉄を得れば宝物として身に着ける。なぜなら衆生に福がなくなり、福なき共業が悪しきものを感召し、宝物が存在しなくなるからである。
地球が形成されたばかりの頃は、甘美な泉が至る所に湧き、自然に地肥(肥沃な土壌)が生じていた。当時の人類は二禅天から降りてきた者たちで、福徳が非常に大きかった。その後、衆生が貪りの心を生じ、福徳が減少すると、甘泉と地肥は消失して現れなくなり、天然の粳米(うるち米)が生じ始めた。さらに福報が減少すると、天然の粳米さえも生じなくなり、人類は五穀を栽培しなければならなくなった。現在までずっと、人力による農作物の栽培が続いている。現在の地球上に存在する非常に栄養価の高い五穀や植物は、我々はその名前すら聞くことができない。これこそが我々が福徳を消耗した結果である。我々は現在、薄福の衆生に属している。これより後の衆生は我々よりもさらに福が薄く、美味しい穀物や米はすべて消失し、彼らはそれを食べることも見ることもできない。したがって、我々の生活のすべては、我々の福報から来ているのである。
これらの福報はどこに存在するのか?すべて如来蔵の中に存在する。如来蔵は我々の銀行である。もし銀行に預けた貯金をすべて消耗してしまえば、貧窮下賤の者となる。もし銀行に預けた福徳を取り出さず、あるいは少ししか取り出して享受しなければ、我々は富貴の大長者となる。修行者は多くを貯め、少なく用いるべきである。取り出した後、再びそれを衆生の利益と安楽のために用いれば、そうして再び福を貯め込むことになる。そうすれば銀行の預金はますます増え、利息が利息を生み、福徳が円満に修まれば、仏となることができるのである。
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