衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月20日    月曜日     第1 回の開示 合計1542回の開示

意根の思量

第八識によって変現される相分は、色法塵と心法塵の二部分を含み、末那識はこれらを全て思量します。色法塵に対する色・声・香・味・触・法の思量、および心法塵に対する六識心と心所法の思量を含みます。また末那識は自らをも思量することができ、自らを思量する時には末那識の証自証分が現前して運営しています。悟りを証得した後、末那識は大智慧を獲得し、第八識をも思量できるようになります。六識が認識できない多くの相分も、末那識は意識の情報提供や助力を必要とせずに思量できます。これにより、末那識の縁じる範囲は極めて広範であり、思量する対象と内容の量が膨大であるため、その禅定を得ることは相当の困難を伴い、意識心を調伏するよりもはるかに困難です。

末那識が色法塵を思量する例として、色身に対する思量があります。第八識を依り所として身根を縁じると、身根の様々な状態を了別します。その後、身根を如何に造作し変化させるか、身体を最も快適な状態に保つか、不快や痛みを除去するか、危険や事故を回避するか、休息させ疲労を回復させるか、負担を軽減するか、呼吸を円滑にするかなどを思量します。睡眠中にも身体を安定快適な姿勢に保つよう思量し、不快があれば身体に寝返りを打たせ、掻きむしり、排便排尿などの造作を行わせます。身体の不調や異常に対しては、思量後に六識を覚醒させて了別処理させ、身体の損壊を防止します。

末那識は色・声・香・味・触・法を思量し、その後六識に詳細な了別と造作をさせるか、回避させるかを決定します。ある法塵については六識が接触処理できず、第八識の協力を必要とするため、事象が完了しても六識は覚知しません。末那識が思量を完了していない法塵については決断を下さず、継続的に思量を重ね、夜間の夢中に現れることもありますが、意識はその意義を必ずしも理解しません。

末那識のこの思量作用は、六識の身口意の造作と同時並行して行われ、相互に障礙を生じません。これが「身口意行が無心のように造作する」と称される現象で、俗に「上の空」と誤解されます。しかし末那識の思量は極めて深く、粘り強い性質を持ちながらも察知されにくいものです。禅修行者が公案に取り組む境地は正にこれであり、行住坐臥において念々に公案を懸け、末那識に深く浸透させます。これは意識の表層的な思惟分析とは次元を異にします。

末那識の思量機能を活用すれば深い悟りを得て智慧の宝庫を開くことができます。末那識が証得を認めると、心の働きに質的飛躍が生じ、身心に大きな変化が現れます。これは六識が他者から得た知識や推測とは異なり、末那識自らが証得したため深く確信し、心を揺さぶられ、根本的な転換を遂げます。この修行は根本的な問題を解決するのです。

末那識は心法塵に対し、六識の六塵了別の状態、了別完了の有無、六識の疲労度、休息の必要性、継続了別の要否、六識の六塵に対する愛憎などを思量します。思量の結果、六識の現行造作を停止させるか、他の六塵境界へ転換させるかを決定します。

末那識は自らをも思量する能力を有し、これはその証自証分の一部です。自らの直近の決断が理に適っているか、完了したか、補足修正が必要かを思量します。その後、決断を変更することも、固持して行動に移し目標達成を図ることもあります。ある者の末那識は慣性力が強く「頑固」と称されます。誤った決断と知りつつも変更せず、結果を顧みずに貫徹します。末那識の智慧の有無により思量能力に差が生じ、決断力が異なるため結果は千差万別となります。

末那識が第八識を思量するのは、意識の思惟と導きによるものです。末那識単独では第八識を自覚できません。無始劫以来続く無明のため、第八識と共存しながらその存在を認めず、その機能を自己のものと錯覚してきたからです。意識が第八識の理を学び、末那識を不断に薫習することで、末那識は第八識の体性を了別し始めます。第八識を証得しようと決意すれば、禅参究を選択するのです。

第八識を証得後、意識による第八識の観察思考を通じ、末那識は第八識が一切法を生じる機能、五蘊と六識の無我性、自らの無我性を思量し大智慧を発起します。次第に五蘊・六識及び自らが実体なきものと認め、自我への執着を断じます。第八識の機能を自己のものと見做すことも薄れ、智慧は深化し無我性が拡大、無明が稀薄化し、心行は清浄平等へ向かいます。末那識が智に転じると、単独で第八識を思量し、多くの法を自己のものと迷わず、無我の心行で平等性を深めます。

——生如法師の開示
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