衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月15日    水曜日     第1 回の開示 合計1530回の開示

父子合集経選講(十九)

原文:大王。如何なるが身内の風界、軽動などの相か。謂わく、この内風は、或る時は上行し、或る時は下行し、或いは腹間に住し、或いは脇、或いは背にあり。或いは隠疹を発し、或いは塊を成し、或いは刀の裂くが如く、或いは針の刺すが如し。出入息など、遍く身肢に満つ。

釈:大王、身体内部の風界の軽やかに動く相とは何か。下から上へ昇る風、上から下へ降りる風、左から右へ、右から左へ流れる風、腹部・脇腹・背中に留まる風、湿疹を引き起こし塊を形成する風、身体を刀で切られる如く針で刺される如く感じさせる風、呼吸の出入りする風――これらの種類の風が四肢五体に遍満しているのである。

風の特性は軽やかで動的である。風の推進力がある時は歩行や乗物が速やかに進み、風が吹けば軽い物は空中に舞い上がる。風はまた動揺を引き起こす性質を持つ。我々の身体が活動できるのは、体内に風性が存在するからである。風性がなければ四肢も動かせず、言葉も発せられない。

言語は如何にして生起するか。内心に覚観や感受が生じ、これを表現しようとする時、体内に風が起こる。この風が臍に触れ、心臓と肺を経て気管・喉頭・口へと上昇し、舌・歯・唇に至り、遂に言葉となる。風界がなければ言語は生起せず、風性の動的性質がなければ音声も発せられない。いかに多くの思想があろうとも、風の作用がなければ表現手段を失い、言語は成立しない。これこそ身体内部に風性が存在する証左である。

言語もまた虚妄である。一音一音の声は何処に蔵されるか。存在せず。発語が終われば、その声は何処に滅するか。滅する所なし。万法この如く虚妄にして得る所なく、無から無へと帰する理は論ずるに及ばない。一切の事象を観察すれば、接触する全てが虚妄不実と知れる。この観行を深めれば諸法空相を証得し、我見を断じて初果を得、もはや執着すべき何物もなくなる。

執着が生じるのは理が通じていないためである。理を透徹すれば、この色身から宇宙・山河大地・三千大千世界・十方仏土に至るまで、全てが無から無へと帰する虚妄と観じられる。この理を深定中に観じ、真に体得して初めて修行は力を得、煩悩を降伏する智慧が生じる。定力・福徳・智慧・観行が不足すれば、無我の果位は証し難く、事に臨んでは依然として諸法を実体視し、執着と煩悩に悩まされるのである。

体内の風は下から上へ、上から下へ、左右に流動する。坐禅時に気脈の動きとして感知される。気脈とは即ち風であり、その経路に沿って身体感覚が生起する。坐する姿勢が自然に調えられるのも、風の動性が身体を支配する作用による。

——生如法師の開示
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