朝の静坐中、QQの通知音が鳴った。最初はただ音を認識するだけで、音の定義や概念はなく、いかなる感覚も伴わない。単なる知覚が長く続く。これが耳識の了別であり、比較的粗いものである。その後、意識の了別が生じ、意識が分別して初めてQQの音だと判別される。定義と言葉が生まれ、感覚が伴う。同時に、だるさから動きたくないという心地よさへの執着が生じ、坐り続けたいと思う。これが意根の執着である。耳識が音を感知する前、意根が知覚している状態では、ぼんやりとして音であるか判然とせず、内容も分からない。意識が現れて初めて徐々にQQの通知音だと識別される。通常の坐禅でない場合、この了別過程は極めて短く速い。しかし禅定の中では心が微細になり、了別も繊細になる。耳識・意識・意根が普段より微細化し、全体のプロセスが長く感じられ、内容が細やかになり、知覚が純粋になる。心が感情を起こしにくく、煩悩が制御されやすい。
これらは全て意根の働きによる。もしさらに意根を降伏させることができれば、通知音が鳴ってもそれを了別しようとしなくなる。すると耳識と意識が生起せず、五識全てが生起しない。無覚無知の状態となり、これが二禅の境地に入るということである。
静坐中、心は微細になり、知覚は真実味を帯び、客観的で感情に左右されない。普段気付かない事実の真実を発見できる。心が境界に入り込まず、純粋に知覚し、客観的に了別すれば、我見を断ち、心を明らかにすることが比較的容易になる。
禅定を得た者の心は極めて微細である。微細な了別によって人や物事を正確に見極め、本質を捉えることができる。物事に取り組む際は心細やかで細部まで行き届き、新しい事物に接すれば速やかに習得できる。誤りが少なく、聡明で智慧がある。心が散乱している者は、想像に難くないが、心が荒く気が焦り、粗略でいい加減である。私が出会う人々の中で、ほとんど目に留まる者はない。故に私は常に人を避け、幼少期から独りを好み、静かに何事かに没頭することを愛してきた。
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