証果と悟りを開く際に、果たして意識が理解すればよいのか、それとも意根が同時に明らかに悟らなければ証果できないのか、この問題も唯識種智の問題である。識を転じて智と成した後の地上の菩薩のみが真に観察し得、この問題を真に理解できる。なぜなら、地前の菩薩と凡夫は意根とその極めて微細な働きを観察できず、証果において意根が果たす微妙で深遠な役割を観察できないからである。したがって、証果における意根の役割を否定することは理にかなわず、法を謗り法を壊す行為であり、その果報は軽くない。
意識による証果を一緒に宣伝する者は、現世後世の果報が甚だ楽観できない。あたかも盲人が道案内をする果報の如きものである。我々は皆、まだ法を理解していない時には、できる限り口を閉ざすことを選び、態度を表明することを控えれば災いを招くことも少なく、発言しなければ災いを招くことはない。病は口より入り、禍は口より出ず、この道理は誰もが理解すべきである。
最近、国が打ち出した一連の宗教政策について、見識のある人は少しばかり端倪を見抜き、問題の所在を理解し、風向きを察知できるはずである。もし先んじて気づくことができなくても、後から気づくのであればまだよい。気づかぬままであることを恐れる。愚かな人には愚かな果報がある。
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