根本煩悩:貪、瞋、癡、慢、疑、悪見の六つの心所法です。この六つが根本煩悩と呼ばれるのは、この六つの根本煩悩から一切の煩悩が引き出されるからであり、根本が一たび滅すれば、その後の二十の随煩悩あるいはそれ以上の随煩悩も次第に滅していきます。樹の根が断たれれば、枝や幹、葉もその後まもなく滅び、長く存することはないのと同じです。
大随煩悩:不信、懈怠、放逸、昏沈、掉挙、失念、不正知、散乱。不信の煩悩心所法は、信位の修行を満足したときに断除されます。三宝に対する疑、自心如来蔵に対する疑、自分が未来に成仏することに対する疑などです。しかし、すべての法に対する不信が断除できるわけではなく、基本的な法、一定のレベルの法に対してのみ不信が断除されるのです。懈怠心所法は七覚分を修め、精進覚分が現れたときに滅します。精進でないときには、まだ懈怠の現象が現れることがあり、三果、四果および初地菩薩に修到してはじめて、懈怠心所法を徹底的に滅除できます。放逸心所法も同様で、出離心が生じれば、あまり放逸ではなくなりますが、徹底的に断除するには三果以上に修到する必要があります。
定に入れば昏沈心所法は滅除されます。掉挙心所法も同様で、未到地定が具足すれば掉挙しなくなり、初禅定以後には掉挙の現象は滅除されますが、禅定が消失すれば、また掉挙が現れることもあるでしょう。失念も同様で、いずれも禅定と関係しており、定力が十分なときには修行する念を忘失することはありませんが、定力が消退すれば保証できません。散乱も禅定と関係しており、不正知は智慧と関係していて、解脱の法を薫修していないなら、心には不正知があります。意識はすべての大随煩悩と相応し、五識は単独ではこれらの煩悩心所法を持たず、意識とともにあってはじめて持つことができ、第七識と意識がこれらの煩悩を現行するのを輔助します。第七識は昏沈心所法がないほかは、其余の煩悩心所法をすべて持っています。第八識はすべての煩悩心所法と相応しません。
中随煩悩:無慚、無愧。慚愧心所法とは逆で、自分が過ちを犯しても反省を知らず、他人に申し訳ないと思っても恥と懺悔を知りません。第六識・第七識の心は無慚無愧と相応し、五識は意識に依存してはじめてこれらを持ち、第六識・第七識がこれらの煩悩を現行するのを輔助しますが、単独では持つことができず、第八識にはこの二つの煩悩がありません。
小随煩悩:忿、恨、覆、誑、諂、憍、害、嫉、悩、慳。これらはすべて瞋恨心を主とする煩悩であり、慳貪心もあります。一般に煩悩の習気に属し、第七識の心に随眠して、きわめて断ちがたく、たとえ根本煩悩が断除されて阿羅漢となっても、これらの習気は滅除しがたく、地上菩薩は長い修道の過程においてはじめて次第に断除し滅尽できます。しかし、阿羅漢と地上菩薩は、すべての小随煩悩のそれぞれと相応するわけではありません。五識は第六識・第七識がこれらの煩悩心所法を現行するのを輔助し、第八識にはこれらの煩悩の心行がありません。
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