一切の法は自ら証得することができ、現量によって観察することができる。これが何よりも重要である。たとえ仏陀が自ら口にした言葉であっても、自ら観察し実証すべきであり、最終的に初めて疑いなく確認できる。自ら証験した理は事実であり、事実は仏陀の言葉よりも確かである。そして仏陀が自ら口にした言葉は伝来した仏経よりも確かである。なぜなら仏経はすでに他者の口と手を借りたものであり、転述に属するからである。仏経は等覚菩薩の論よりも確かであり、等覚菩薩の論は他の菩薩の論よりも確かであり、他の大菩薩の論は凡夫の言葉よりも確かである。結局のところ、経論がどれほど確かであっても、実証ほど確かなものはない。
しかし現在では、たとえ仏陀が自ら法を伝えに来たとしても、すべての衆生は仏経だけを信受し、仏陀が自ら口にした言葉を信受することはできない。なぜなら、仏陀が世に降臨したことを知らず、自ら法義の正真かを弁別する智慧もないため、信じることは盲信・崇信に過ぎず、証信ではなく真の信でもなく、ただ仏陀の名声と威望を信じているに過ぎない。もし衆生が仏陀が自ら娑婆世界に法を伝えに来たと信じるならば、衆生は仏陀の姿を現した仏陀の説くことを信じ、たとえ仏経が非常に正真であっても必ずしも仏経を信じる必要はない。これもまた、衆生が仏陀およびその説く法に対して盲信と崇信をしていることを示しており、証信ではない。もし仏陀の姿を現した者が説く法を信じるならば、魔王波旬が仏陀の姿を現して法を伝えた場合、どう対処すべきか? それも完全に信じてしまい、その後は捻じ曲げられて生死に沈淪し、解脱を得られなくなる。
したがって、千言万語を尽くしても、実証こそが最も確かであり、ただ事実を信じ、ただ真理を信じることこそが、すべての人が従うべき基準である。そして真理を証得することは極めて難しいことであり、多大な福徳と智慧を必要とするため、衆生は他者の口にした言葉を信じざるを得ない。これもやむを得ない措置である。それゆえ仏陀が去る際、弟子たちに繰り返し「四依四不依」を守るよう厳しく言い含めた。この四依四不依はきわめて守り難く、ほぼ99%の人が福徳・禅定・智慧の欠如により達成できないことは明らかである。
一方で、実証を信じるべきと言うと、我慢の深い一部の人々は自らの推論と理解だけを信じ、これが自ら実証したものだと考え、実証者の言葉を信じなくなり、ますます慢心を深めて自欺欺人に陥り、結局は法の利益を得られない。末法期における仏法学習の現象は、仏陀が来ても対応が難しく、衆生は左か右に偏り、盲従か過剰な自信による我慢かのどちらかであり、智慧が不足している者は適切な尺度を測ることが難しく、比較的適切な度合いを把握することが難しい。まさに医者の手も施しようがない状況と言える。
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