修行の目的は、一切の無明を破り解脱を得ることです。無明がなければ煩悩もなく、生死もなく、束縛もありません。全ての煩悩は無明から生じます。もし修行を他の事柄と結びつけるなら、それは無明であり解脱を得られません。
無明を除去し我執を断ち切って解脱するためには、他者を助けて共に解脱を得ることが欠かせません。他者を助ける過程で福徳資糧を獲得し、一切の無我に関する見道の資糧を得て、自らの無我の解脱心を育み、慈悲喜捨の菩提心を養います。よって他者を助けることは自らを助けることであり、両者は対立するものではなく一体なのです。
多くの人々が仏法を学ぶ目的は、知識を得てそれを用い世間の名声や利益を求め、他者からの恭敬を受け、他者を支配する権勢を獲得し、より強大な自我を築くことにあります。これは無明を増長させ、より強く束縛され解脱から遠ざかります。このような知識理論はそのまま煩悩です。しかし実証を経ればそうではなく、自心に相応する解脱と軽安が生じ、同時に他者に清涼をもたらし、周囲の環境を改善し、他者を利楽させ、自他共に利益を得るのです。
衆生の無明は幾劫をかけても語り尽くせません。もし時間をかけて少しずつ指摘すれば、どれほど多くの人が驚愕することでしょう。自らが如何に思いもよらぬほど無明に満ちているかを。無明から生じていない法など存在しません。誰もが無明を抱え、常に無明があり、あらゆる事柄に無明が存在します。無明は広く普遍的に存在しているのです。真の明を見出すことさえ困難で、自分が明であると考えている時、それがすなわち無明なのです。愚痴は天地に満ち、無始劫以来から無始劫の未来まで、実に膨大無量なのです。
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