意根が意根を立てるとは、証自証分である。意根は自らが時処にわたって主導的選択を行う我であると執着するが、これもまた生滅幻化にして実体なきことを知らない。意識は意根の時処にわたる主導的選択性と恒常的審査思量性を我として実体視するのか。いったい誰の意識がこのように意根の機能作用に執着し得るのか。もし意識がこれらの機能作用が意根のものであることを知らず、意識自身の機能作用であるとするなら、これは誤った執着であり、意識もまた無明である。
意識が六塵を了別し分別する機能作用を実体的我と認めることは、意識の証自証分である。これは誤認であり、この誤認が意根にも同様の誤認を引き起こす。意根のこのような誤認を正すため、まず意識に意識の機能作用が実体的我ではないことを反省させ、意根を薫習させる。一旦意根が薫習され、意識の機能作用を実体的我と認めなくなれば、我見は断たれる。
これらの仮の我は、主に意根が認識するものである。意根は色身が我意根のもの、六識の機能作用が我意根のもの、六塵が我意根のもの、五根が我意根のもの、意根の機能作用が我意根のものと認識する。意根こそ一切法が全て我のものであると主張する資格を最も有する。なぜなら一切法は確かに意根に奉仕するものであり、意識も五識も、如来蔵さえも含まれるからである。故に意根のこの我はかくも自信に満ち、かくも頑固で、かくも執拗で、かくも傲慢で、かくも盲目で、かくも不可逆的である。このため初めて我見を断つことがかくも困難であり、仏法を学んだ後も生死の海で頭を出したり沈んだりすること久しく、遂に海から頭を出し、立ち上がり、岸辺に至り、自在を享受し、憂い悲しみ苦悩から解脱するのである。
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