衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年10月13日    土曜日     第3開示 合計913開示

声を聞く時には真心の第八識を識取すべきです

音を聞くときには、耳識の参与があり、意識の参与があり、同時に第七識と第八識の参与もある。これら四つの識はすべて形も相もない。音を聞くときに悟りを得ようとするならば、どれが第八識で、どれが第七識で、どれが意識で、どれが耳識かをはっきり区別しなければならない。これらの識が和合して作用する中で、必ず真心と妄心を区別し、区別した後にその真心を認め取ること、これが明心開悟である。

もし福徳、定力、慧力のいずれも備わっていないと、往々にして妄りを真と認めてしまい、誤って意識心を真心の第八識として悟ってしまう。意識心を悟ったときにも一種の空の覚受があり、内心も一時的に清浄になり、人や物事をある程度空として見られ、仏典もわずかに理解できるようになり、空理を当てはめることもできるが、第八識がどのように具体的に五蘊七識の万法を生じるかは決して理解できない。誤って悟った者は絶対にこれを知らない。これが真の悟りと誤った悟りの分岐点であり、まさにわずかな差が千里の誤りを生むのである。

意識心と第八識はどちらも形も相もなく、ある種の類似点がある。一般の人は、意識がわずかに清浄になり、雑念や妄想がなくなり、心の動揺がなくなって、心身の内外のあらゆる境界相をはっきりと感知できるようになると、このような清明な状態にある意識心を、本来無念無知の清浄な第八識であると見なし、こうして主人公を取り違えてしまう。意識がどれほど清明であろうと、どれほど無知であろうと、意識心が存在する限り、六塵の境界を知る「知」がある。あるいは意識に定があれば、定境を知る「知」もある。したがってそれは第八識ではなく、真の開悟ではない。ただ自分の意識心が愚痴であり、この時自分が置かれている状態を内省することが難しいために、これが第八識の無知であると思い込み、自分は第八識を証得したと認定してしまう。これはいかに大きな誤解であることか。

実際、意識心が非常に微細になると、その内省力も非常に微弱になる。それに加えて、学仏者が意識心の本質を理解していないため、意識心を真心の第八識と誤認する現象は非常に普遍的である。現在、自分は悟ったと自認する人は至る所にいるが、長年経っても智慧は元のままで、依然として足踏み状態にあり、進歩がなく、禅宗の公案も相変わらず理解できず、経典も理解できない。

だから、すでに悟ったと自認する学仏者に対し、自らの生死の大事のために、早急に振り返って自分の悟った内容が何であるかを点検し、経典と照らし合わせて確認するよう勧める。意識の本質と第八識の本質を改めて仔細に分析・判定し、真心と妄心の種々の違いを厳密に区別した上で、菩薩となるために必要な条件を努力して円満具足させることである。菩薩となるために必要な条件がすべて具足した後で、改めて参禅し、真に仏門に入り、真実の菩薩となることを求めるのである。

——生如法師の開示
前へ前へ

『父子合集経』選講

次へ 次へ

《父子合集経》選講

ページトップへ戻る