大王。このように心に念ずべきである。我はいかんすれば人天の中において眼目となり、長夜の中において光明となり、愛河の中において船筏となり、険難の処において導師となり、依怙なき者に対し主宰となれるか。自ら度を得て更に他を度し、自ら解脱して更に他を解脱せしめ、自ら安穏を得て更に他を安穏ならしめ、自ら涅槃を証して更に他を証せしめるべきである。大王。彼の現在世間における所受の富楽、五欲自在、諸根の幻の如きを観るべからず。境界は夢の如しと謂う。色境・声・香・味・触に対し、貪着の心を生じて満足する時なきを。
阿羅漢の証する涅槃は色身五蘊を滅した後再び色身を現起せず、灰身泯智、仏法を修学することも続けず、衆生を利楽することもなく、慈悲心薄く、自ら仏となることを願わず、また衆生を率いて共に成仏することもできない。故に阿羅漢の無余涅槃は不究竟であり、最も究竟なる涅槃は仏の証得する無住処涅槃で、永遠に一切衆生を捨てず。菩薩たちの心行は阿羅漢と異なり、無余涅槃に入ることはできながらも入らず、生生世世に三界において仏法を修証し、絶えず自利すると同時に衆生を導き利する。故に菩薩は阿羅漢より偉大で、阿羅漢より慈悲深く、阿羅漢より大智慧を具え、阿羅漢より神通広大である。
仏は父王を諄々と諭された。現在世間における所受の富楽と五欲自在を観るべからず、色境・声・香・味・触に対し貪着の心を生じて満足する時なきを、再び色声香味触法の境界に貪着すべきでないと。五欲六塵に心が貪着する時、満足することは容易ではない。世尊の父王は数十年国王として世俗の五欲楽を享受しながら、なおその苦しみを知らず、出離を知らなかった。仏は諭された。汝は再びこの世間の富貴と快樂に貪着すべきではない。諸根は幻の如く境界は夢の如しであるからと。六根は皆幻化であり、眼根は色に貪着せず、耳根は声に執着せず、五欲楽に迷う生活、紙酔金迷の日々を送るべきではない。これらは全て幻化であり、六塵境界は夢の如く真実ではなく、常に幻滅するものである。
仏がなぜ繰り返し父王を諭されたのか。権勢ある富者は度し難く、長く五欲楽に沈酔し、自らを抜け出すことが容易でないからである。貧者は貧苦の生活を送り、深く世間の苦を覚え、仏法に遇えば自ずから勇猛精進して学仏修行する。ただし福徳薄き者は生活の為に世俗に奔走し、仏法を学ぶ余裕がない場合を除く。
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