衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月13日    土曜日     第2開示 合計912開示

『父子合集経』選講

大王よ。このように思うべきである。私はいかにして、人天の中で眼目となり、長夜の中で照明となり、愛河の中で船筏となり、険難な所で導師となり、頼るものなき者には主となって、自ら度を得た後にさらに他を度し、自ら解脱した後に他を解脱させ、自ら安穏を得た後に他を安穏にし、自ら涅槃を証した後にさらに他に証させることができるだろうか。大王よ。彼が現在の世間で受けている富楽や五欲の自在、諸根が幻の如く、境界が夢の如き様子を観るべきではない。すなわち色境・声・香・味・触に対して心に貪着を生じ、満足する時がない状態をいうのである。

阿羅漢の証する涅槃は、色身五蘊を滅した後、再び色身を現じず、灰身泯智(身体は灰となり智慧は消える)の状態であり、仏法の修学を続けず、衆生を利楽することもなく、慈悲心が薄く、自ら仏に成ろうとせず、また衆生を導いて共に成仏させることもできない。したがって阿羅漢の無余涅槃は不究竟であり、最も究竟した涅槃は仏の証得する無住処涅槃であって、永遠に一切の衆生を見捨てることはない。菩薩たちの心行は阿羅漢とは異なり、無余涅槃に入ることができながらも入らず、生々世々に三界の中で仏法を修証し、絶えず自利すると同時に衆生を導いて利益を与える。ゆえに菩薩は阿羅漢より偉大であり、阿羅漢より慈悲深く、阿羅漢より大智慧を持ち、阿羅漢より神通が広大である。

仏は繰り返し父王に諭された。現在の世間で受けている富楽や五欲の自在を観るべきではなく、色境・声・香・味・触に対して心に貪着し満足する時がない状態、すなわち色声香味触法のそれらの境界に再び貪着してはならないと。心が五欲六塵に貪着する時は満足しにくいものである。世尊の父は数十年にわたり国王として世俗の五欲楽を享受しながら、なおその苦しみを知らず、出離を知らなかった。そこで仏はこう諭された。あなたはこの世間の富貴と快楽に再び貪着すべきではない。なぜなら諸根は幻の如く、境界は夢の如きものだからである。六根はすべて幻化したものであり、眼根は色に貪着せず、耳根は声に貪着せず、五欲楽に迷って享楽にふける生活を送ってはならない。これらはすべて幻化したものであり、六塵境界は夢の如く真実ではなく、いつでも幻滅するものである。

仏がなぜ繰り返し父王を諭されたのか。それは権力や財産を持つ富者は度化し難く、彼らは長く五欲楽に酔いしれて容易に自ら抜け出せないからである。一方、貧しい者は貧苦の生活を送り、深く世間の苦しみを感じるため、仏法に遇えば自ら勇猛精進して学仏修行する。ただし福徳が薄すぎる者は生活のために世俗の生活に奔走し、学仏修行することができない場合を除いては。

——生如法師の開示
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