無貪心所法とは、心に貪愛や貪欲、貪得の念がなく、法に束縛されず、法に執着せず、法から解脱した状態を指します。八つの識は全て無貪心所法と相応しますが、三果に至る前の七識は時として貪を生じることがあります。無貪の状態は一時的で個別の法に対するものであり、六塵の境界への貪愛を断除したものではなく、貪を降伏させ現起させない状態です。貪愛の断除は個別の法(禁煙・禁酒等)に限定され、他の法への貪は残存し、将来再発する可能性があります。三果以降、七識は淫欲貪を主として貪を断じますが、第八識は初めから終わりまで一切の法に貪ることなく、無為の心として無貪であります。
無瞋心所法とは、心に瞋恚の念なく平静で、法に拘束されず解脱した状態です。八識は皆無瞋と相応しますが、三果以前の七識は時に瞋を生じます。無瞋状態は一時的で個別法へのもので、永久的断瞋ではありません。三果以降、七識は瞋心所を断じ現行を生じませんが、習気の偶発的顕現は残存します。第八識は始終瞋心所なく、一切の法に清浄なる無瞋を保ちます。
無痴心所法とは、愚痴性なく無明を離れ、智慧をもって法を了知する状態です。八識は皆無痴と相応しますが、相応の程度に差があります。六七識が五陰無我の理を了知するのは我見断後、真我如来蔵の了知は明心後、世俗界解脱の了知は三果後、一切法の了知は成仏後です。五識の無痴は五塵境界の明察、第八識の無痴は初めから一切法に迷わず無明を有しません。
精進心所法とは、心に懈怠なく勤勉で、挫折にも屈しない状態です。八識は皆精進と相応しますが、程度と持続時間に差があります。五識の精進は意識・意根の主導による受動的行為、六七識の精進は覚悟後の目的志向的行為です。第八識は無始来一貫して最極の精進を保ち、休息なく働き続けます。
軽安心所法とは、心が緩和・安楽・自在である状態です。八識は皆軽安と相応しますが、前七識の軽安は修行進展時に現れ、七覚分の倚覚分現前として禅定の前提となります。第八識は本来より負担なく常に軽安自在です。
不放逸心所法とは、心が懈怠せず享楽に流されぬ適度な緊張状態です。八識は皆不放逸と相応しますが、前七識は出离心発起後次第に不放逸を増し、入地後は仏道修行と衆生済度に専注します。第八識は無始来一貫して不放逸を保持します。
行捨心所法とは、心が平等・中道を保ち過去未来に執着しない状態です。八識は皆行捨と相応しますが、前七識は禅定時等に限って行捨を現じ、三四果以上は恒常的に行捨を保ちます。第八識は本来より常に行捨の状態です。
不害心所法とは、一切を傷つけまいとする慈悲の心行です。八識は皆不害と相応しますが、前七識は瞋恚断後に恒常化します。第八識は無始来一切を慈しみ害心なき不害の体性を具えます。
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