衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2019年04月07日    日曜日     第2 回の開示 合計1397回の開示

善十一心所法(一)

善十一心所法は、時に識心に伴って運行し、時に識心に伴わず運行する。識心が煩悩を断除して初めて、より多く識心に伴って運行することができ、識心が煩悩習気を断じ尽くして後、常に識心に伴って運行し、識心は常に善なるものである。ただし第八識は元来より常に善であり、悪ではなく、煩悩ではない。

悪人の七つの識の善心所法は稀に現れるのみで、善人の七つの識の善心所法は時に現れ時に現れず、六七識が識を転じて智となって後、善心所法が識心に伴って現れることが極めて多く、稀に現れないこともある。ただ仏の七つの智識の善心所法は常に現れ、常に存在し、永久に智心を離れない。

信心所法とは、信じること、確信すること、自信を持つことを指す。善法の存在、功徳作用、善法の力、善法の法則、善法の変遷、善法の結果などを信じることをいう。しかし真実の信とは、正信・理信・深信・浄信・善信を指し、邪信・悪信・不浄信・不純正心がなく、正理に忍可し、三宝の功徳を深く信じ、自ら必ず仏となれると深く信じることをいう。信心所法は常に現前するものではなく、特殊な状況下、必要不可欠な場合にのみ現れる。深厚な善根福徳を備え、劫を経て仏法を学んで初めて信を成就する。信じた後は受け入れ、服従し、随順し、実践する。前七識は全て信心所法と相応し、どのような修道位にあろうとも、修道位が高まるほど信は具足する。

慚心所法と愧心所法とは、慚は自らに恥じ、愧は他者に恥じることで、不安・自責・羞恥・愧疚・羞恥心・後悔などを覚えることである。心中に慚愧あることは自我が降伏された証であり、自らを省みることを知り、無我と相応するもので、自我を高く掲げる傲慢な者ではない。六七識は慚愧二つの心所法と相応し、どのような修道位にあろうとも、修道位が高まるほど慚愧心は増す。

——生如法師の開示
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