六祖は人々から追い詰められ、やむなく猟師の集団に身を潜めていました。当時彼が置かれた環境では禅定を修めることしかできませんでしたが、六祖が禅定を修めたのは真心を保任するためではなく、禅定の中で真如の理を思惟し、深い後得智を得るためでした。真に如来蔵を証得した者には、如来蔵を保任する必要はなく、一度悟れば永遠に悟った状態です。もし離念の意識心を悟ったとするならば、意識の無念状態を保任する必要があり、常に禅定を修めて意識心を無念・無妄想の状態に保たねばなりません。禅定を修めなければ妄念が再び現れ、それは悟りとは言えず、明らかに誤った悟りであり、大きな誤解です。
なぜなら彼らは妄想のない時の意識心を如来蔵として悟ろうとし、妄想がある時は如来蔵ではないと考えているからです。そのため禅定を借りて意識が妄念を生じない状態を保任し、長く妄想のない状態を維持しようとします。これは生滅する意識を不生不滅の如来蔵として悟ろうとする誤った修行と誤った悟りであり、甚だしい誤解です。真の悟りには保任は不要であり、如来蔵は決して妄念を生じることがなく、意識心で如来蔵を無念に修めたり、意識で如来蔵の無念を保任したりする必要は全くありません。
如来蔵を悟った後も禅定を修める必要はありますが、その目的は異なります。目的はより深い禅定を得て観行を行い、より深い智慧を獲得し、煩悩を軽減あるいは除去して心を清浄にすることです。六祖はその15年の間に四禅定を修得し、神通力を修得し、智慧を修得しました。彼は第八識如来蔵を保任するのではなく、六祖は明心して如来蔵を証悟したことで永遠に如来蔵を認識し、再び迷うことはなくなりました。禅定を修めることで如来蔵の体性をより深く体悟し、自らの心を一層清浄にし、般若の智慧をより深く広大なものにしたのです。
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