衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年09月21日    月曜日     第1開示 合計4844開示

問:意識が長期間無為でいると、その機能・作用は喪失してしまうのでしょうか。その場合、意根はその作用を放棄するのでしょうか、それとも代わりにその作用を果たすのでしょうか。

答:無為というのは、身口意が造作しないという意味です。意の不造作とは思択しないことであり、すなわち思わず、考えず、抉択せず、心念を空しく置くことです。これは直接、二つの結果をもたらします。一つは身が造作せず、口が造作せず、身は行ぜず口は言わないという結果です。もう一つは、身は行じ口は言うものの、身口が無心に運行し、機械的・自動的・習慣的に現れるという結果です。聖人は多くの事においてこのように無心であり、賢人は時にはこのようであり、ある面ではこのようであり、凡夫はただ偶然に、短時間、個別の事に対して無為になるだけですが、これは真の無為・真の無心ではなく、単に意に留めないだけです。怠け者も外見は無為のように見えますが、実は怠惰なのです。

しかし意識が造作しないようにするには、必ず意根の同意を得なければならず、あるいは意根が無為であって初めて意識が無為となります。なぜなら意識は主となることができず、独立して存在し運行することができず、意根という作主識の思量・抉択から離れることができないからです。唯識の現量観察能力があれば、意根が背後で運行している真相を見出すことができ、意識と意根の切り離せない協力関係を見出すことができるでしょう。

意識が長期間何も思考せず、何もせず、何も分別しなければ、愚痴となり、機能が弱化・退化し、さらには喪失してしまいます。機能の退化には一時的なものと長期的なものがあり、しばらく訓練を重ね、境界に慣れた後には、元の智慧の状態に回復することもできます。意識が無為になったからといって必ずしも消失するわけではなく、ただ機能が弱化するだけであり、あるいは怠惰であるか、あるいは終日じょう(samādhi)の中にいて何もせず、塵境に対する体験や経験がなくなり、言葉が遅鈍になり、事を行うに智慧がなくなるのです。意識の機能の退失・弱化は、意根が抉択した結果であり、意根が無為で造作しようとしないことによって生じたものです。意根が造作しようとする時には、意識はまた塵境に適応するよう努力し、智慧を増していくでしょう。意識と前五識は意根が必ず使用しなければならない有力な助手であり、意根はそれらを放棄して使用しなくなることはありません。ただ使用の多少の問題があるだけです。

意識の機能が弱化している時、意根の機能は増長する可能性があり、思量 (manasikāra/manana) 機能が強まり、自ら体験して塵境に対応する能力が強まり、智慧が増長しますが、完全に意識に代わることはできません。これには相当に深い禅定と智慧の証量が必要であり、意識の機能に代わる程度は、個人の修証の智慧の程度によって差があります。八地以上の菩薩は、意根が意識と五識の機能・作用を完全に代わることができますが、四禅定以前の地上の菩薩はまだそれができず、せいぜい智慧の増強を得られるだけです。

菩薩の無為と阿羅漢の無為には区別があります。阿羅漢は世間法を放棄して造作しない無為であり、第一種の無為です。菩薩は第二種の無為であり、なすべきことはできる限りすべて行い、事を行うことを恐れず、事を行うことを拒みませんが、事を行うと同時に心は空で何ら求めるところがありません。それゆえ菩薩の智慧は阿羅漢を超えて勝れており、成仏も最も速いのです。


——生如法師の開示
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