衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年09月22日    火曜日     第1開示 合計4845開示

白雪香の問い:私は意根の秘密を一つ発見しました。道を歩いているとき、目は興味のあるものに対して自ら進んで抓取(つかみ取ること)を行い、目がその興味のあるものを見た瞬間、一瞬の停頓が生じ、それから意識が生じて分辨します。私は今、観行 (vipaśyanā-caryā) の方法を会得しました。それは、目が抓取するその瞬間、注意力が生起するその一刻に、すぐさま一つの念頭(反観)を起こすのです。「神様」は何に注意しているのか?と。それこそが意根の興味のあるところだからです。もし注意している内容が貪瞋痴に属するものであれば、私は timely に貪瞋痴の煩悩を解決できます。耳根も同じメカニズムのはずです。

もし自分が注目しているものに対して覚知がなければ、意識は意根の興味に従って転じ、「自分が何をしたいか」をしたいままに行うことに慣れてしまいます。こう修めば、意識に能動的に作意させることができ、意根に引きずられて走らされることがなくなります。このように修めば離念に至るのでしょうか?

答:もし目が自動的に抓取するのだとしたら、ロボットも自動的に運行しているはずですが、ロボットは自動的に運行しているのでしょうか?決してそうではありません。ロボットの背後にあるプログラムがロボットを指導して識別の働きを起させています。目は自ら色塵を抓取するのではなく、意根が眼根を指揮して色塵に随って転じさせ、その後に意識と眼識が現れて分別の働きを起こすのです。眼根が特意に何らかの色塵を注目する前に、すでに意根が作意・触・受・想を行い、それから思量 (manasikāra/manana) して決定し、眼根がその色塵の上に定まるのです。その後、意識が生起して了別に行きます。もちろんこの過程は非常に隠秘であって、一般の人には発見できず、観察もできません。

前の過程が察知できないのであれば、後の行為を観察すればよいのです。意識と眼識が色塵を抓取するときに、意根が何に注目しているかを観察します。白雪香のこの発見は体験と反観と呼ばれるもので、実践の中から総括された方法です。実践から真知が出るのであり、修行方法が自動的に生成されたのであって、理論上の意解ではありません。このように観察を続ければ、自心の貪瞋痴の煩悩を降伏し、煩悩に随って転じることがなくなります。これは意識による意根への牽引と拘束の働きです。

目が抓取していることに注意したとき、意識と眼識が出生しており、意識はすぐさま念頭を生じてこう言います。神様(意根)は何に注意しているのか、何に興味を持っているのか、と。このように意識が常に意根の注目する対象を観察し警戒すれば、意根の貪瞋痴の煩悩を観察することができ、意識が意根の煩悩に随って運転しなければ、煩悩の生起と継続を制約することができます。これは意図的に意根の貪瞋痴の煩悩を降伏しているのです。

このような観察は反観と自省とも呼ばれ、修心の過程であり、悪を断ち善を修するのに有益です。一般の人にはこのような観察能力がなく、自心を反観することができず、自省することも不可能です。それゆえ貪瞋痴の煩悩は畅通無阻となり、どんな大悪業でも敢えて造り、三宝を誹謗しても無知無覚なのです。見道の前に、すでにこのような観察能力・反観能力・反省能力があるべきであり、煩悩を降伏する能力があるべきです。ところが数多くの偽見道者は、ずっとこの能力を生じ出さず、煩悩がますます重くなる可能性がありながら、自分では覚知しないのです。

——生如法師の開示
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