七識が六塵の境界に直面するとき、どのような様相を示すのか?執着、貪愛、嫌悪、憎悪などである。七識が六塵の境界に直面する様相を見れば、意根が多くの場合、捨受ではないことが分かる。感情は激しく、常軌を逸し、内心は猿のように騒ぎ立つ。なぜこのようなことが起こるのか?七識は善悪・是非・曲直を知り、自分にとっての利害・得失を知り、損益を知るからである。七識の心には「我」があり、必ず「我」を出発点として物事を見ようとし、必ず自分の利益を守ろうとし、必ず喜怒哀楽の思想・感情が生じる。そして境界に直面して心が平穏でなければ、それは捨受ではない。もし捨受であれば、心境は平和的であり、心行は無為であり、境界がどうであっても構わず、気にしないのである。
長期間母胎の中にいて生まれることができないのは、悪報に属する。仏の息子である羅睺羅は母胎の中で六年経ってから生まれたが、それは前世で鼠の穴を六日間塞ぎ、鼠を穴の中で窒息死させたためであり、それゆえに母胎の中に六年間いるという悪報を受けたのである。母胎の中にいる間、最初は意識がなく、意根と如来蔵だけがある。胎内にいることが果報に属する以上、意根は果報を受け止めることができるのである。
母胎の中で悪報を受けている時、意識はまだ生まれておらず、意根はどのような感受を持つのか?もし意根が快楽の感受や無感受であれば、それは悪報とは呼ばない。昏睡している時、植物人間になっている時は、いずれも悪報、あるいは苦報に属する。この時、六識はなく、意根だけが苦報を受ける。それならば、意根は楽受や不苦不楽受ではあり得ない。そうでなければ苦報とは呼ばないからである。中陰身の境涯では前途は茫漠としており、一般的にはすべて苦受である。意根は苦受を好まないがゆえに、苦受を避けるために急いで転生しようとする。この時、意根は楽受や不苦不楽受ではあり得ない。眠った後、意根はどのような感受を持つのか、誰が知り得るだろうか?目が覚めたばかりの時、意根はどのような感受を持つのか、誰が知り得るだろうか?様々な出来事に遭遇した時、意根はどのような感受を持つのか、誰が知り得るだろうか?これらの法は非常に深遠かつ微細であり、意識の禅定と智慧が不足していれば、現量として観察することはできないのである。
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