衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月04日    火曜日     第1開示 合計4799開示

意根に三種の受があることの証拠(一)

第六識と第七識には、いずれもそれぞれ対応する境界に対する受があります。前五識も五塵の境界に対して受があり、この受は往々にして情緒を伴わない、比較的純粋な感受、すなわち色・声・香・味・触の境界を純粋に領受することです。意識の受は、最初は純粋な領受・領納ですが、了知した後には情緒を伴う受となります。喜怒哀楽がすべて表れ、心理活動が非常に多くて複雑です。

意根にも受があります。六識が分別して了知した内容はすべて意根に伝えられねばならず、意根は六識から伝わってくる詳細な情報を領受し、それ自身の感受を持ちます。また、意根は第八識に依拠して第八識が縁とする一切法の影像を見ることができ、一切法を神様はすべて了別することができるため、意識にはない様々な受や、意識には了知されない受があります。たとえば、意根が第八識に依拠して、自分あるいは身内に事故が起こりそうだと了別すると、心の中で焦り、恐れ、心配し、不安や驚き恐れる気持ちが生じ、様々な苦受が現れます。そのため、六識を駆り立てて、常識に反する不可解なことをさせ、意識もまた驚き恐れて落ち着かないなどの情緒を表しますが、なぜそうなるのかは分かりません。もし意根が、近いうちにめでたいことが起こると了別すれば、心の中に喜びや楽しさなどの楽受が生じ、意識には理由の分からない楽しさが現れ、楽受が生じます。

意根が六識の了別した状況に依拠して生じる受もあります。たとえば、昼間のある出来事を、夜に手が空いたとき、意識がよく回想して分析すると、表面的なものとは違うと分かり、意識は考えるほどに怒りが募ります。このとき意根もそれを知って怒りを生じ、心臓の不調や、だんだんと険しくなる顔色として表れたり、あるいは新たな決定を下したりするのです。

意根の受は単なる捨受 (upekṣā-vedanā) であり、苦受・楽受はないと言う人がいます。しかし、もし意根に苦受・楽受がなく捨受だけであるならば、第八識のように一切法を容認でき、一切法に対して興味を抱くことも、避けたり拒んだりすることもなく、喜び・悲しみ・怒り・楽しみなどの情緒的な行為を身心にさせず、度を越した行為や情緒が現れることもなく、身心を淡々と、静かに、安定的に保っているはずです。しかし現に見ると、意根はそうではありません。特に煩悩を調伏していない、修養のない人は、いっそうひどく情緒化しており、多くの場合、意識にはなぜそうなるのかさえ分かりません。林黛玉のように憂鬱な人、阿修羅のように短気な人は、意根に苦受があり、それを抑えきれない結果なのです。意根の習気があまりに大きいとき、意識はこれらの情緒の出現を制御することが困難であり、これは意根が捨受ではないことを示しています。苦受のゆえに意根には対応する煩悩があり、楽受のゆえにも対応する煩悩があるのです。

——生如法師の開示
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意根が受想と貪愛を滅除すれば即ち滅尽定に入る

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意根に三種の受があることの証拠(二)

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