衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年08月03日    月曜日     第1開示 合計4795開示

意根が受想と貪愛を滅除すれば即ち滅尽定に入る

瑜伽師地論第十八巻原文:云何无攀无住。所谓诸爱永尽离欲。寂灭涅槃。及灭尽定。所以者何。所言攀者。诸烦恼缠。所言住者。烦恼随眠。于彼处所。二种俱无。是故说言。无攀无住。此谓涅槃。无攀无住。又想名攀。受名为住。若于是处。二种俱无。即说彼处。无攀无住。如是显示。灭想受定。无攀无住。今此义中。意取灭定。

解釈:攀縁せず住着しないとは何を言うのか。それは、一切の貪愛が永遠に断じ尽くされて欲を離れ、心が寂滅して涅槃の境地に入ること、あるいは滅尽定を証得することである。なぜそう言えるのか。攀縁とは、意根が諸々の煩悩に纏縛されるという意味であり、煩悩に纏縛されない者の心は諸法を攀縁しない。住着するという意味は、心の中に煩悩の随眠があることであり、それゆえに心が法に住するのである。もし煩悩と煩悩の随眠を断じ尽くしたならば、それを攀縁せず住着しないと言うのである。これが涅槃における攀縁せず住着しないという意味であり、このように滅受想定における攀縁せず住着しない境地の相を示すことによって、この人が滅尽定を証得したことを明らかにしているのである。

六識が滅し尽くされ、意根がさらに受と想という二つの心所を滅除した状態が、滅尽定である。受とは法に住するという意味であり、法の境を受け入れることを住と言う。想とは攀縁するという意味であり、了知し執取することを想と言う。攀とは煩悩に纏縛されるという意味であり、意根が煩悩を断除すれば攀縁しない。煩悩を断除することを諸愛永尽と言い、諸愛永尽こそが離欲である。意根が欲を離れれば、すなわち諸愛永尽となり、もはや攀縁しない。意根が欲を離れ、攀縁せず住着しなければ、すなわち無余涅槃に入る。衆生が無余涅槃を証得しないということは、意根に攀縁があり、愛があり欲があり住着があり、法を受け、想をなし、煩悩に纏縛され、心が寂静でないことを示している。このように滅受想定において意根に攀縁も住着もない状態を示すことこそが、滅尽定なのである。

意根が色塵を攀縁せず色塵に住着しなければ、眼識と意識は生じない。意根が声塵を攀縁せず声塵に住着しなければ、耳識と意識は生じない。意根が香塵を攀縁せず香塵に住着しなければ、鼻識と意識は生じない。意根が味塵を攀縁せず味塵に住着しなければ、舌識と意識は生じない。意根が触塵を攀縁せず触塵に住着しなければ、身識と意識は生じない。意根が法塵を攀縁しなければ、独頭意識は生じない。意根が六塵に対して受も想もなく、受覚と了知性を滅し、六塵を了知しようと欲しなければ、滅尽定の中にいるのである。

ここの思惟の論理は非常に厳密で、隙が全くない。弥勒菩薩は明確に示されている。衆生の意根に欲と愛があれば、すなわち攀縁と住着があり、滅尽定を証得できず、涅槃の境地に入って解脱を得ることもできない。もし衆生の意根が欲と愛を離れれば、滅尽定を証得でき、涅槃をも証得でき、それを解脱を得ると言うのである。

離欲とは、三界の世間法に対するすべての貪愛を離れることであり、それによって三界を離れることができる。離瞋とは、瞋恚の現行の煩悩を断除することであり、意識の瞋を断除するだけでなく、さらに意根の瞋を断除すべきである。弥勒菩薩は、貪瞋痴は衆生の堅固な煩悩であると言われる。堅固という意味は断除し抜き取ることが難しいということであり、煩悩が非常に深いということである。これは意識の貪瞋痴のみを指すのではなく、主に意根の貪瞋痴を指している。意識の貪瞋痴は降伏し断除するのが容易であり、意識は聡明で智慧があるので、仏法を学べば転じることができるが、意根は聡明でなく、法を理解し会得することが容易でなく、思惟することもできないため、転変させることが難しく、貪瞋痴の煩悩は根深く、抜き取ることが難しいのである。


——生如法師の開示
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以下の場合、意根は作意せず六識を出生する

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意根に三種の受があることの証拠(一)

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