耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、舌が味を嘗め、身が触を覚えることもこれと同じ道理です。したがって、『金刚経』は説く、全ての相は虚妄である。私たちが認識、分別、了知する全ての相は仮相であり、如来蔵が私たちに变现した影である。如来蔵は鏡のように、外六塵に接触する時、外六塵とまったく同じ影を变出でき、この影は内六塵である。私たちが一切の相が影であり仮相であることを真正に証知した後、心の執著性は軽減され、煩悩は淡薄になり、一切の得失利益をあまり计较せず、心は清净になる。それ故、六根が再び六塵に触する時、識心は染汚煩悩を生起せず、漸漸に心は清净になる。したがって、清净は心の清净であり、根の清净ではない。根は分別性なく、識は分別性あり。識が分別する時、清净と不清净の心行を伴う。
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