世俗における一切の法は如来蔵が幻化した仮の相であるが、仮の相には仮の相の作用があり、その相を善用すれば正真の菩提を得る。仮の相であるからといって一概に排除すべきではない。仮の相を滅する能力が我々にあるかどうかは別として、仮の相をすべて滅してしまえば、菩提の真相はどのようにして道を修めるのか。菩薩の修行は仮の相を巧みに利用して一切の功徳を円満にし、邪染を美善に変え、邪悪を清浄に変えるべきである。世俗の法が自分の意に沿わず、生存環境が自分を厳しく妨げると感じ、一切の世俗法から離脱して滅し、清浄を得ようとする者がいる。しかしこれらの世俗法は自らの業種と相応するものであり、業を変え、心を変えてこそ、自らを取り巻く一切が思い通りになるのである。
修行がある程度に達すると、世俗の法は自分を妨げず、影響も及ぼさなくなり、内心は次第にこれらの仮の相の束縛から離れる。我々は効果的な修行によってもこれらの六境の仮の相を変え、悪を善に、醜を美に、不満足を満足に変えることができる。心が変われば内外の相分も同時に変わり、心の境地が変われば業種が変わり、相分はそれに従って変わる。六境の内外の相分は完全に転換可能であり、心力が十分であれば石を金と指すことも難しくない。禅定を得た大菩薩たちは千変万化し、大地を黄金や瑠璃に変え、八地の菩薩に至っては三千大千世界を変化させて衆生を利楽する。修行によって心量が広大になり心力が強くなれば、地水火風の四大種子の比例構造を変えることができる。四大の比例が変われば物質の構造が変わり、構造が変われば物質の属性が変わる。そうすれば白雪は白糖に変わり、塵は金粉に変わる。修行が一定の境地に達すれば、一切の法の内外相分を変えることは難しくない。
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