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日常法話

2026年06月17日    水曜日     第1開示 合計4746開示

『金剛経解説 知見不生分 第三十一』

原文:須菩提。若し人言く。仏、我見・人見・衆生見・寿者見を説きたもうと。須菩提。于意云何。是の人、我が説ける義を解するや不や。不なり。世尊。是の人、如来の説ける義を解せず。

解釈:須菩提よ、もし誰かが、仏も我見・人見・衆生見・寿者見を説かれたと言うならば、その我見・人見・衆生見・寿者見は実在するものとなります。須菩提よ、あなたはどう思いますか。この人は私の説く意味を理解しているでしょうか。須菩提は答えて言いました。この人は世尊がお説きになった意味を真に理解しておりません。

世尊が経典を説き法を説かれる時は、必ず衆生の心理的な認識に随順し、衆生が用いる名詞や概念を用いなければなりません。そうすることで初めて、説法は衆生と通じ合い、衆生は理解できるようになり、仏は衆生を導いて仏法の真実の意味へと移行させ、最終的に仏と同じ境地に至らせることができるのです。なぜなら、衆生には五陰の我という知見があり、また人の概念や知見、衆生の概念や知見、寿者の概念や知見があり、しかも衆生のこれらの概念に対する認識や理念はすべて誤りであり顛倒しているからです。それゆえ世尊は衆生に随順し、衆生の認識と同じ名詞や概念を用いて、衆生の誤った認識を打ち破り、衆生の誤った知見を正さなければならないのです。

ですから世尊は説法の際にも、我見・人見・衆生見・寿者見といった言葉を用い、さらに、なぜ我見が邪見であるのか、なぜ人見が邪見であるのか、なぜ衆生見が邪見であるのか、なぜ寿者見が邪見であるのかを具体的に説かなければなりません。そうすることで初めて、衆生の四種の顛倒した邪見を打ち破り、衆生が内心の生死の結びつきや束縛を断ち切り、束縛の枷を断ち切って、最終的に解脱を得ることができるのです。もしそうでなければ、世尊はどのようにして広く衆生を救い、衆生に真実の仏法を明らかにさせ、自利利他を成し遂げさせることができましょうか。ですから、仏は我見や人見といった名詞や用語を用いられたとしても、それは衆生の我見や人見・衆生見・寿者見が実在する知見であることを意味するのではありません。これらの知見もまた虚妄であり、仮に存在し、滅ぼすことができるものであり、実在すると執着してはならないのです。

原文:何以故。世尊、我見・人見・衆生見・寿者見を説きたもうは、即ち是れ我見・人見・衆生見・寿者見に非ず。是を名づけて我見・人見・衆生見・寿者見と為す。

解釈:なぜそう言うのでしょうか。世尊が説かれた我見・人見・衆生見・寿者見は、真に我見・人見・衆生見・寿者見というものがあるわけではありません。いわゆる我見・人見・衆生見・寿者見は、実在するものではなく、真実の法相もなく、ただ仮に我見・人見・衆生見・寿者見と名付けられているに過ぎず、すべて名前だけのものだからです。

須菩提が言ったこれらの言葉は、我見・人見・衆生見・寿者見といった知見が存在するという真実性を否定しており、まさに経文の前にある般若の意味に沿うものです。これらの知見は真実の法ではないからこそ、修行によってこれらの知見を取り除き、四相を打ち破ることができるのです。あの公式、すなわち「いわゆる……、すなわち……に非ず、是を名づけて……と為す」を当てはめると、この公式の義理は、世間のあらゆる法が真実に存在するということを否定し、真の意味での世間の万法はなく、すべて虚妄であることを示しています。なぜなら、すべては如来蔵から生じ、顕現したものであり、すべて如来蔵の種子の機能や作用であり、その実質もまた如来蔵だからです。したがって、世間の一切の万法は仮の名前に過ぎず、実質的な意味はありません。

我見・人見・衆生見・寿者見というこれら四種の邪見も、世間の万法の中の理法であり、後天的に生まれ、また滅び去る法であり、先に無くして後に有り、有った後にまた無くなる法です。実は存在している時でさえ、刹那刹那に生滅しているのです。生滅の速度があまりに速いため、衆生は気づかず、誤って実在すると見なしてしまい、こうして様々な錯見や邪見が形成されます。これらの邪見はすべて虚妄の仮相であり、真実ではありません。もし真実であれば、衆生は修行によってこれらの邪見を断ち切り、正しい知見や見地を具足することができなくなるでしょう。これらの邪見にはいずれも自らの体性がなく、自主性もなく、すべて外縁に依存して存在し、如来蔵から生じるものです。

では、我見とは何であり、またどのようにして生じるのでしょうか。我見とは、我相に対する知見です。正しい知見は我相は空であると見なすことであり、誤った知見は我相は有ると見なすことです。まず「我」について言えば、衆生が考えるこの我は、一つには色身を指し、二つには六識心を指し、三つには第七識の意根を指し、あるいはこれらの三つを合わせた五陰の我や十八界の我を指します。これらの我はすべて仮の我であり、真実ではなく、実体もなく、すべて因縁によって生じ、幻化して存在し、縁が滅すれば散じ、依るべきものも頼るべきものもありません。

色陰は如来蔵の四大種子によって生成され、生じ、住し、異なり、滅し、変化して無常であり、現象としては有りますが、実質は無く、本質は如来蔵です。受陰は六識の感受であり、如来蔵が六識の種子を送り出して生成され、生じ、住し、異なり、滅し、幻化して実体ではなく、縁が滅すれば散じ、依るべきものではありません。想陰は六識が六塵の相を捉え、了知する性質であり、如来蔵が六識の種子を送り出して生成され、幻化して存在し、縁が滅すれば散じ、依るべきものではありません。行陰は六識の身・口・意の行いの流れや変化、および色身の変化や変動であり、如来蔵が七大種子を送り出して生成され、生じ、住し、異なり、滅し、幻化して実体ではなく、縁が滅すれば散じ、依るべきものではありません。識陰は六識の了別性であり、如来蔵が送り出す六識の種子によって生成され、幻化して真実ではなく、縁が滅すれば散じ、依るべきものではありません。四陰にも実体性はなく、自在性もなく、現象としては有りますが、実質は無く、本質は如来蔵です。

衆生が考える我には、十八界の六根、六塵、六識も含まれます。これらの法もまた、如来蔵が七大種子を送り出して生成され、生滅し変化し、現象としては有りますが、実質は無く、本質はすべて如来蔵です。五陰や十八界を我と見なし、我見を持つのは誰でしょうか。それは第六識と第七識です。第六識は断続我見と呼ばれ、第七識は倶生我見と呼ばれます。第六識の存在は一段一段であり、未来世に行くことができず、生命が終われば消え去り、生命が現れれば生じるため、断続的です。第七識は無始劫の昔からずっと存在し、未来世に行くことができ、四果の阿羅漢を証し、執着を断ち尽くした時にはじめて第七識を滅ぼすことができるため、倶生我見および倶生我執と呼ばれます。

我見を有するのは主にこの二つの識です。そして、この二つの識は、如来蔵が識の種子を送り出して初めて生じ、存在し、機能を発揮できるのです。したがって、六識と七識には自主性がなく、実体性がなく、自在性もなく、生滅変化し、幻化して無常であり、しかも刹那刹那に生滅変化しています。ですから、六識の我見と七識の我見は、すなわち我見に非ず、真に存在する我見ではなく、実体のある我見ではなく、幻化した我見であり、本質は如来蔵です。それゆえ、六識の我見と七識の我見を、仮に我見と名付けるのであり、我見は単なる仮の名前に過ぎないのです。

我見に対応する人見、衆生見、寿者見も、この理と同じであり、すべて如来蔵が幻化した六七識の心が生じさせた誤った邪見です。これらの邪知錯見も、真実に存在するものではなく、陽炎の如く、空しく幻で実体がありません。表面的には有るように見えますが、実質は無く、本質はすべて如来蔵であり、真実のこれらの邪知錯解は存在しません。ちょうど煩悩即菩提のように、煩悩の本質は菩提心たる如来蔵であり、邪知邪見もまた菩提心たる如来蔵の機能作用です。したがって、その本質も如来蔵であり、これ以外にはありません。

原文:須菩提。阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は、一切の法に於いて、応に是の如く知り、是の如く見、是の如く信解し、法相を生ずること無き。

解釈:世尊は言われました。阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は、一切の法に対して、すべてこのように了知し、すべてこのように一切の法を見るべきであり、すべてこのように信解を生じ、内心で再びいかなる法相も生じさせず、いかなる法相も執着せず、空っぽで清らかであり、坦々として広々としているべきです。

世尊はここで、大菩提心を発した菩薩たちに勧めておられます。一切の法に対して、根源を探り究め、その本源と実質を徹見すべきであると。一切の法の本質を深く知り、虚ろな仮の相に執着せず、偽りの名前に執着しないように。一切の法を観察し、また観察し、思考し、また思考し、あたかも芭蕉の皮を剥くように、一層一層と外皮を剥がし、その最も中心で最も根本的なところを徹見すれば、芭蕉は元来空であり、芭蕉という実質の相貌はないことを知るでしょう。

このようにして一切の法を観察すれば、元来すべて空であり、実質的な一切の法はなく、すべて如来蔵の空相であると知るでしょう。そこで心は静まり、妄想を除き去り、一切の法相を求め取ろうと望まず、もはや外に向かって追い求め、乞い求めることはなくなり、ここに心の本源に帰り、自性の故郷に帰ることができるのです。こうして内心では再びいかなる法相も生じさせず、一切の法を夢幻や陽炎の如く、鏡像や水中の月の如く見なし、決して実有の法として執着し、捉えることはなくなります。そうすれば、生死を造り作る因を免れ、生死の業果を滅し、無明を断ち尽くし、異熟果が空となり、大円鏡智が現前し、十方世界に道場を構え、無量無辺の有縁の衆生を広く利益することができるのです。

原文:須菩提。所謂法相とは、如來の説きたもうは即ち是れ法相に非ず。是を名づけて法相と為す。

解釈:須菩提よ、衆生が言うところのいわゆる法相は、如來が説かれたところでは、真に存在する法相ではなく、真実に有る法相ではなく、すべてただ名前だけのものであり、それゆえ仮に法相と名付けられているのです。

法相には、三界世間の中の色法相と心法相が含まれます。色法相とは、五根、および六根が対応する色・声・香・味・触・法です。外相分の色・声・香・味・触・法であれ、内相分の色・声・香・味・触・法であれ、真実に存在する法相ではなく、表面的には有るように見えますが、実質は空です。これらの色法相はすべて如来蔵が四大種子を出力して構成したものであり、それゆえ幻化したものであり、虚空の花の如く、陽炎の如く、光や影の如く、水中の月の如くであり、その本質はすべて如来蔵の法相です。そして如来蔵の法相もまた空であるならば、色・声・香・味・触・法および五根はすべて空相であり、それゆえ即ち法相に非ず、名前のみあって実質はないのです。

心法相とは、七識の心の法相、および七識に伴う心所法の法相です。七識の法相は、如来蔵が七識の識種子を出力することによって形成され、識種子は刹那に生じ、また刹那に滅し、生滅変化し、虚ろで実体がありません。七識が運行する時の行相は、表面的には有るように見えますが、実質は空であり、陽炎の如く、人の目を惑わすだけです。ですから七識も真実に存在するものではなく、真実の法相はなく、その本質は如来蔵の空相なのです。

七識が運行する行相は、心所法の形で運行します。それには、作意・触・受・想・思の五遍行心所法、およびその他すべての心所法が含まれます。七識が運行すれば、これら五つの心所法は七識に伴って現行し、その他の心所法も時に七識に伴って現行します。七識が生じれば、心所法もそれに伴って現行し、七識が滅すれば、心所法もそれに伴って滅します。七識の心は生滅して虚妄であり、真実ではなく、心所法はなおさら生滅して虚妄であり、真実ではありません。その表面的な運行の行相は有るように見えますが、実質は空幻であり、捉えようがなく、本質はすべて如来蔵の空相です。したがって、心法相もまた空であり、ただの名前に過ぎません。ですから、仏は法相を説かれても、それは即ち法相に非ず、真実に存在する法相ではなく、すべてただ名前だけのものであり、本気にしてはならず、執着してもならないのです。

——生如法師の開示
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