鶴千行:私たちの娑婆世界は火宅と糞坑そのものであり、身体もまた臭穢不浄で、乞食の着るボロ衣のようです。どの人も全身ゴミだらけで臭くて鼻をつくほどであり、男女老若を問わず、たとえ美男美女であっても、その中には屎尿が溜まっており、外側を一枚の皮の袋が包んでいるだけなのに、それを抱きしめて愛してたまらないと思い、この服が腐り破れると、死んだのだと思い込んで、恐ろしくてたまりません。凡夫というこのボロ服を脱ぎ捨て、諸仏菩薩のような綾錦の衣に着替えるというのは、特別に嬉しいことではありませんか?
男は自分の事業、金銭、実力、そして身体の雄々しさを誇示し、女は色仕草で自分の美しさを誇示する。それはまるで屎尿の入った花瓶を掲げて、力いっぱい誇示し、異性の認めを得ようとし、淫欲心と自己の虚栄心を満たそうとしているようなものです。なんと滑稽なことではありませんか?花瓶の中に屎尿が入っていると知っている人は、避けるのに必死であって、争って奪い合おうとする衝動など持てるでしょうか?
仏法の修証においては、初歩的な法であれ、より高深な法であれ、真に明白になり、理解するということは、必ず巨大な身心の変動を伴うものであり、水のように淡々として、痛くも痒くもないということはあり得ません。意根と色身は緊密に繋がっており、色身は意根の制御を受けていますから、意根が真に一つの心の結び目を解いたとき、身心には大きな変化が生じます。実修する人だけが身をもって体会できるのです。今、仏法を得ることがあまりに容易すぎ、答えがあまりに楽に手に入るため、答えを知ったことが自分の智慧であると思い込み、証得したのと同じだと考えてしまいます。実際には、本当に北京へ行ったことと、北京への旅行ガイドを読んだだけとでは、まったく別のことです。もし自分は法を理解したと思いながら、巨大な身心の変化を伴わないのであれば、それが自ら体験した明白なのか、それとも他人の法義を理解しただけの明白なのかを省みて反省しなければなりません。自ら体験した明白こそが自分自身の真の明白であり、はじめて言行一致ができるのです。
心の結び目が解けると、軽くなった、鎖が断ち切れたような感覚があり、まるで圧縮されて固く詰まった綿の塊が縛りを解かれたようです。絶えず反省し、自分の身心世界を反観していくにつれ、自分の貪瞋痴慢疑の生起と消失に気づくようになり、内心の変化を見るたびに、煩悩が少し薄らいだと感じ、身体もそれに伴ってますます軽やかで軽安になっていきます。貪瞋痴の念がだんだん少なくなり、いつの日か基本的にそれらの煩悩の念が生じなくなると、身心は光明を感じるようになります。もちろん実質的な光明ではなく心光であり、自分だけが感じ取れるものです。身心の変化のたびに、仏法への信心が絶えず強まっていくのも覚察できます。それは体悟であって、脳の想像ではないからです。身心がその変化を確実に感じ取り、その信心の増大は確かに見て取れるものです。半信半疑で手放すことから、自覚的に自ら進んで世間のものを手放すようになるのは、すべて信心が強まり、疑惑がだんだん少なくなっていくからです。過去を振り返ると、貪瞋痴の中で生きていたときの状態は、まるで毒水に浸かっているように苦しく、自らそれらを遠ざけました。すべてが苦受だったからです。数え切れないほど多くの法理はみな自分で体悟しなければなりません。本当に自分自身と向き合ったとき、はじめて自分が以前はまさに衣冠禽獣であったことに気づきます。今は修行によって観心し、自分の身心世界を反観することで、徳行が大きく向上し、衣冠禽獣から少し人間らしい姿になってきました。私自身はまだほど遠く、ほんの第一歩を踏み出したばかりです。
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