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日常法話

2026年06月10日    水曜日     第1開示 合計4738開示

金剛経講解・威儀寂浄分第二十九

いわゆる威儀とは、衆生が日常生活のなかで行き来し、立ち止まり、出迎え送り出すなどといった身口意行のことであり、修行のある人は、身口意行がいずれも端正厳格であって理法にかなっていなければならず、一定の規範に合致していなければなりません。出家者には出家者の威儀があり、在家者には在家者の威儀があり、身分が異なれば威儀も異なり、それぞれの衆生の威儀はみな自分の身分に合致していなければなりません。この一品は、仏の威儀を開示するものであり、仏の威儀は衆生と同じところもあり、また異なるところもあります。なにしろ仏はすでに三大無量数劫を修行してきており、身口意行はいずれも清浄 (viśuddha/pariśuddha) の極みに達し、完全無瑕で、一糸の過失や瑕疵もなく、まさに人天の模範に堪えるものなのです。

この一品のタイトルは、威儀寂浄分といい、わずか四五文字で金剛経の主題と中心点をすっかり明らかにしており、まさに画竜点睛の筆というべきものです。金剛経の冒頭における世尊の着衣、食事、托鉢、足洗いの威儀の密意と呼応し合っており、理があり事があり、理事ともに具えており、衆生の身中にあるあの金剛不壊の心を指示し、それによって仏法の精髄を余すところなく彰示し、衆生を大乗実相般若 (prajñā) の第一義諦のなかに導き入れ、衆生の無量の智慧の宝蔵を開くのです。

では、威儀寂浄とはいったいどのような密意があるのでしょうか。仏の八万の威儀、三千の細行、着衣托鉢、食事足洗い、講経説法、衆生の度化、これらの身口意行は、明らかにみな動であり、みな仏の行蘊に摂されるものであり、もともと動蕩止まざる、生滅変異の法です。それなのに、なお寂浄 (praśama) だと言うのはなぜでしょうか。ここで皆さんにひとつの謎を残しておきますので、自ら発心してそのなかの天機を探り当ててください。私はここでそれを言い明かすことはできません。

この謎を、参禅の疑情として、深く頭のなかに懸けておきなさい。朝にも提撕し、晩にも提撕し、食事のときにも提撕し、足を洗うときにも提撕し、行住坐臥のいずれもが提撕でなければなりません。提撕を重ねていくうちに、いつの日か、ポチャンとひとつ、心が豁然大亮して天窓が開き、疑情が打破され、家に帰って安座します。それからは毎日、悠々と自家の宝物を享受し、着るものは手を伸ばせば来て、食べるものは口を開けば来て、もはや外に向かって征討することなく、自分のものでないものを掠奪することもなく、太平盛世がそこから降臨し、ついには転輪の宝座に登り、天下において唯我独尊となります。善哉!善哉!何の楽しみにこれを為さざるや!

原文:须菩提。若有人言。如来若来若去。若坐若卧。是人不解我所说义。何以故。如来者。无所从来。亦无所去。故名如来。

解釈:須菩提よ、もし有人が、如来はあるいは来た、あるいは去った、あるいは坐った、あるいは臥した、と言い、これらの表相の上に行来去止の如来を見るならば、この人は私が長いあいだ開示してきた仏法の大義を真に理解していないのであり、それゆえ如来の表相に迷い、真の如来を見ないのです。なぜそう言うのか。真の如来は無所従来であり、また無所去であり、そこから来るいかなる処所もなく、来処がなく、またそこへ至ってゆくいかなる処所もなく、去処がないからです。来ず去らず、生ぜず滅せずのものを、真の如来と名づけるのです。

世尊はなんと慈悲深いことでしょう。衆生のために、弊膩垢の衣をまとい、身を屈めてこの濁悪の世間に来たり、衆生に開示し、仏の知見を説き、講経説法して、疲れを知りません。世尊はここで、繰り返し画竜点睛をなし、惜しげもなく口を動かし、眉を引きずって地につけ、袈裟の角は泥水にすでに濡れ浸っており、ただ衆生を邪見の泥沼から引きずり出し、仏の知見に悟入させ、それから仏と同じ見解と行動をとらせ、もはや曠野の小道や荒れ野の険しいところを歩かせないためなのです。

衆生の着相の習気はすでに徹底的に骨髄に入り込んでおり、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) の毒の棘は実に抜きがたく、いたしかたなく神様である世尊に相を破り、また破り続けてもらい、種々の譬喩や言辞をもって、衆生に一糸の相状もない実相の心を開示するのです。それでもなお、極めて多くの人が、真実の無相の如来を見ず、来来往往、行来去止する有相の如来だけを見ています。しかし有相の如来の、その来去坐臥の相は、消滅して見えなくなることはないのでしょうか。消滅したあと、どこで如来を見るのでしょうか。その来去坐臥の相はまたどこから来て、どこへ滅してゆくのでしょうか。また、なぜ来るものがあり去るものがあり、坐るものがあり臥するものがあるのでしょうか。有心の人は、ここで大きく疑問符を画き、深く疑って、見逃さないようにしなければなりません。

如来の来相は、五蘊の色身に依って相を現し、五蘊の七識心に依って顕現するものであり、もともと五蘊のなかの行蘊です。五蘊七識がなければ、衆生が睹見すべき来相もありません。そしてこの来相は、来る前にはどこにあったのでしょうか。何によって来たのでしょうか。この来相は生滅法であり、生滅法はみな因縁所生であり、来相には種々の縁の聚集があり、因によって出生し、因があり縁があって、来相が現前します。衆生が睹見すると、ただ来相のみを見て、来相がどこから来たのかを知らず、来相の因を知りません。これが迷人の着相であり、真理を識らぬことです。衆生は着相のために理に迷い、塵に合して覚に背くので、それゆえ塵労を発し、世間相は絶えず、生死は絶えません。生死の相から出離しようと思うなら、どうすればよいのでしょうか。もちろん、相を起こす因を求め、真如の理を識り、惑業を剔除して、本来に回帰しなければなりません。

如来の去相は、五蘊に依って相を現し、七識に依って顕現するものであり、もともと五蘊のなかの行蘊です。五蘊七識は何を因として顕現するのでしょうか。去る前に、来るものがあり住するものがあり、来・住の前に因があり、去るときにも因を離れて去ることはできず、さもなければ去ることができません。去ったあとはどうでしょうか。その相は蕩然として存せず、しかし去る因は滅せず、それゆえ絶えず去り、また絶えず来ることができ、生住異滅し、それゆえ循環して已みません。これが生機盎然であり、生縁が処々にあることであり、ちょうど大いなる好春のようです。如来の坐相と臥相もまた、もともと五蘊のなかの行蘊であり、色身と七識に依って相を現し、色身と七識にもその相を現す因があります。この因によって、相は生じ相は滅し、衆生はただ相および相の生滅のみを見て、相の生滅の起因をいまだかつて見ず、表相に迷い、真理を識りません。それゆえ生々して已まず、死々して絶えず、輾転流浪し、迷途にして返らず、なのです。

衆生は積迷して返りがたく、いたしかたなく世尊である神様に八千余回もこの娑婆に来ていただき、一手で天を指し、一手で地を指し、衆生に開示して言います。天上天下、唯我独尊!と。大いに如来の智慧徳相を顕し、衆生のために粘を解き縛を去り、塵労の悩み垢を洗い去るのです。大慈の父でなければ、誰がこれほどでありえましょう!我らがもし如来の孝順の子であるなら、世尊が天地を指すとき、偏袒右肩し、右膝を地に着け、双手合十し、口に我が仏、如来至尊よ、我いま真実の如来を得見す、と呼ばなければなりません。それからしだいに仏業を継承し、仏に代わって宣化し、衆生を接引し、迷を去り智を顕し、仏の知見に入ることができるのです。これができれば多くの孝順の子となり、我が仏の事業は後継者があり、仏法は光大し、慈航は普く渡し、普天同慶、十方同入、薩婆若海となります。

では、衆生はどのようにして真理を識ればよいのでしょうか。世尊はさらに続けて開示します。如来とは、無所従来にして、また無所去なるがゆえに、如来と名づける、と。無所従来とは、如来が来ることのできる処所が一つもない、すなわち来処がないということです。来処はないけれども、如来はやはり時時処々に出現しており、身なしといえども隠れません。では、来処のない如来は、すなわち不生であり、本来そこに在り、他縁に依らず、自在自主であり、この如来こそ、真の如来なのです。また無所去とは、所とは処所であり、行くことのできる処所が一つもない、すなわち不滅であり、不滅とはすなわち時時処々に存在し、時時処々に顕現し、時時処々に起用するということです。この如来こそ、真の如来なのです。真の如来とは、来去の相なくして来来去去し、来来去去しながら湛然として動かず、威威堂堂、如如として来たり、如如として去り、来ず去らず、生ぜず滅せず、なのです。

衆生に真の如来を識らせるために、世尊は文殊と共に芝居を演じて、比丘に真実の如来の義を示現しました。あるとき、比丘たちが講堂にみな着席し終えたのち、世尊は講堂の扉を押し開け、五蘊の三十二相が赫然と大衆の前に顕現しました。世尊はそこで鵝王の歩みをもって、ゆっくりと法座の前に歩み寄り、ゆっくりと足を組んで坐りました。世尊が足を組んで坐り終えると、文殊菩薩は附尺を手に取り、講卓をひとつ叩いて、宣言しました。世尊、講経畢!と。比丘たちは世尊の布法を拝聴しようとしていたところ、突然文殊菩薩がこのように宣言するのを聞いて、一人残らず呆然とし、何の道理かを知りませんでした。そして世尊は比丘たちがどう呆然としていようと構わず、ゆっくりと法座から立ち上がり、ゆっくりとまっすぐ扉のほうへ歩み、それから扉を押し開けて、外へ歩み出て、五蘊の三十二相はそこに消えて見えなくなりました。

諸位、応身仏 (nirmāṇa-kāya-buddha) の如来相は、皆すでに見ました。三十二相、八十種好、威威堂堂、巍巍煌煌、なんと荘厳なことでしょう。しかしこれらの相は、娑婆世界において、結局わずか八十年間留まっただけで、見えなくなりました。これは断じて真の如来ではありません。では、真の如来はどこにいるのでしょうか。どれがそれなのでしょうか。実は、法身仏 (dharma-kāya-buddha) の如来は、いまだかつて応身如来を離れたことがなく、世尊が扉を押し開けて入った一刹那から、世尊が扉を押し開けて出てゆくその過程全体に至るまで、法身如来はずっと神様の面目なき面目をもって顕現しており、眼の尖った人は、直下に見て、慧眼で五蘊の背後のあの神様を識ります。このように識ることは、なんと痛快なことでしょう!なんと軽やかなことでしょう!皆、世尊の五蘊の仮相を放り出して、その放り出せないもの、離れられないもの、いまだかつて生滅せず、来ず去らぬもの、あの法身の真の如来を見てみなさい。好馬は鞭の影を見て行き、智人は五蘊の影を見て、真人を識ることができるのです。真人はどこにいるのか。咄!まさにここにいるのです。


——生如法師の開示
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