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日常法話

2026年06月09日    火曜日     第1開示 合計4737開示

金剛経講解.なぜ諸菩薩は福徳を受けないのか

不受不貪分第二十八  原文:何以故。须菩提。以诸菩萨不受福德故。须菩提白佛言。世尊。云何菩萨不受福德。须菩提。菩萨所作福德。不应贪著。是故说不受福德。

解釈:なぜ一切法に我なしと忍ぶ菩薩が得る功徳は、恒河沙の七宝を布施する菩薩が得る功徳に勝り越えるのでしょうか。須菩提よ、それは諸菩薩たちがみな福徳を受けないからです。須菩提が世尊に申し上げました。世尊よ、なぜ菩薩たちは福徳を受けないのでしょうか。世尊はお答えになりました。菩薩たちの作るすべての福徳は、貪著すべきではない。それゆえに菩薩は福徳を受けないと言うのです。

ここでいう菩薩とは、世尊が暗に指しておられるのは、実際理地における真の菩薩です。その真の菩薩は、一切の受を受けず、一切の法に対して、すべて捨受です。この真の菩薩は一切の法を円満に具足しており、一切の法に対して貪り求めることがないので、貪り求めがないがゆえに、無所得なのです。菩薩の五蘊が世界に七宝を布施するとき、その感得する福徳の果報は、菩薩の五蘊七識が得るのであり、七識が受用するのであって、真の菩薩――如来蔵は一分一毫たりとも得ることはなく、一分一毫たりとも受用しません。そして菩薩の五蘊が布施波羅蜜を行じているとき、七識もまた福徳を貪り求めることがないのです。

菩薩は布施するとき、その心は布施波羅蜜の三輪体空を観行します。いわゆる三輪体空とは、真に布施する人――我がなく、布施を受ける人――彼がなく、その中間に布施される物――七宝がないということです。なぜ布施する人がないのでしょうか。布施する人――五蘊は、如来蔵が変じて生じさせたものであり、色身は如来蔵の四大種子が刹那に出力されて形成されたものであり、それはちょうど如来蔵という黄金の一部が金の指輪である色身に打ち造られたのに相当します。七識は如来蔵が刹那に出力する識種子によって形成されたものであり、それはちょうど如来蔵という黄金の一部が金のネックレスである七識に打ち造られたのに相当します。色身と七識が合わさって五蘊を構成し、五蘊という全体の金製品こそが黄金如来蔵なのです。

そうすると、ここから私たちは、はたして五蘊は存在するのか、五蘊とは一体何なのかを見出すことができます。五蘊の全体はもちろん如来蔵であり、ほかに何ものもありません。それゆえ菩薩が布施するとき、布施する菩薩の五蘊――我がなく、同理として、布施される五蘊――彼もないのです。では、その中間に布施される七宝はどうでしょうか。七宝もまた四大から構成される物質の色法であり、如来蔵が刹那に四大種子を出力して形成したものであり、如来蔵という黄金の一部が金の耳飾りなどのこれら七宝の物に打ち造られたものです。ならば七宝の物とは一体何なのでしょうか。七宝の物とは黄金如来蔵であり、それゆえ真実の七宝はなく、すべて如来蔵なのです。そして如来蔵の体もまた性空であり、一つの実質の相も存在せず、空しくして一相もありません。それゆえ布施波羅蜜の全体は、まさに三輪体空であり、了不可得であり、菩薩は根本的に執著する必要がないのです。

同理として、菩薩が得る福徳もまた空です。まず菩薩の布施行は、業種として如来蔵の中に存在し、縁が熟したとき、如来蔵が再び業種を出力して、菩薩の福徳を実現します。その福徳が実現する形態は、物質の色法と七識の心所法の形態によって実現されます。物質の色法は、金銭、財産、権勢、地位、家族などといった形態で現れるほかなく、これらの色法はすべて如来蔵が四大種子を出力して形成したものであり、本質はすべて如来蔵であり、真実の物質の色法はなく、物質の色法と如来蔵は不一不異です。それならば真実の福報を得ることはなく、すべて如来蔵の自心が自心を取るのであり、非幻が幻法となるのです。

これらの物質の色法の福報を享受するとき、虚妄の七識が受用するのであり、七識の受心所が領受し、感受し、享受し、受心所は快適さ、楽しさ、誇り、自慢、自己の喜びを感じます。そして受心所法は七識の助伴であり、七識が現れると同時に、六塵の対境とともに、受心所の働きが生じます。七識は如来蔵が識種子を出力して形成したものであり、本来如来蔵です。七識の心体は了不可得であり、それならば七識の覚受もまた了不可得です。それゆえ菩薩の福徳が実現するとき、福徳および福徳に対する享受も、実質はなく、本質はすべて如来蔵なのです。

菩薩たちがこのような智慧の境地を証得すれば、福徳に対してこれ以上貪り求めることはなく、福徳を享受しようとする心ももはや生じません。さらに、修得した福徳をすべて阿耨多羅三藐三菩提に回向します。菩薩の修行は一日も早く仏道を成就するためのものであり、世俗の法の福徳の享受のために布施波羅蜜を行じるのではありません。こうして菩薩の修行ははじめて内心空浄に達し、一法にも執著せず、心空にして及第帰するようになり、無上の仏果を証得し、菩提の大道を円満するのです。


——生如法師の開示
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