いわゆる威儀とは、衆生が日常生活における行来去止、迎え送りなどの身口意の行いを指し、修行を積んだ者は、身口意の行いがすべて端厳で理法にかなっており、一定の規範に従っています。出家者には出家者の威儀があり、在家者には在家者の威儀があり、身分が異なれば威儀も異なり、各衆生の威儀は自分の身分にかなったものでなければなりません。この品では、仏の威儀が説示されています。仏の威儀は衆生と共通する点もあり、また異なる点もあります。何しろ仏はすでに三大阿僧祇劫もの修行を経て、身口意の行いがすべて清浄極まりなく、完璧で一点の欠陥や瑕疵もなく、天人の模範に値するのです。
この品の標題は「威儀寂浄分」と呼ばれ、わずか四、五文字で金剛経の主題と中心点をすべて明らかにしており、まさに画竜点睛の筆といえます。金剛経の冒頭で世尊が衣を着け、食事をし、托鉢し、足を洗うという威儀の密意と遠く呼応し、理と事があり、理事双全で、衆生の身の中にある金剛不壊の心を示し、それによって仏法の精髄を余すところなく顕わし、衆生を教化して大乗実相般若の第一義諦に入らせ、衆生の無量の智慧の宝庫を開くのです。
では、威儀寂浄にはいったいどのような密意があるのでしょうか。仏の八万の威儀、三千の細行、衣を着け托鉢し、食事をし足を洗い、経を説き法を説き、衆生を教化する、これらの身口意の行いは、明らかにすべて動きであり、すべて仏の行蘊に摂せられるもので、本来は動揺して止まず、生滅変異する法であるのに、なぜ寂浄と言うのでしょうか。ここで皆さんに一つの懸念を残しておきますので、自ら発心してその中の天機を探り当ててください。私はここで言い切ることはできません。
この懸念を、参禅の疑情として深く脳裏に懸け、朝にも提撕し、晩にも提撕し、食事の時も提撕し、足を洗う時も提撕し、歩く時も座る時も臥す時も提撕しなさい。提撕し続けて、ある日、ぽんと一声、心の中が豁然と明るくなり、天窓が開き、疑情が打ち破られ、家に帰り安らかに座るのです。それから毎日悠々と自らの宝物を楽しみ、衣は手を伸ばせば来、飯は口を開けば来、もはや外に求めることなく、己のものでないものを奪うことなく、太平の世がついに訪れ、最終的に転輪の宝座に登り、天下唯我独尊となるのです。善きかな!善きかな!何故これを行わないことがありましょうか!
原文:須菩提。若有人言。如来若来若去。若坐若臥。是人不解我所说義。何以故。如来者。無所従来。亦無所去。故名如来。
解釈:須菩提よ、もし誰かが如来はあるいは来たり、あるいは去ったり、あるいは座ったり、あるいは臥したりすると言い、これらの表相において行来去止の如来を見るならば、この人は私がこの長い間説示してきた仏法の大義を真に理解しておらず、それゆえ如来の表相に迷い、真の如来を見ないのです。なぜそう言うのでしょうか。真の如来は来たる所もなく、去る所もなく、いかなる処所からも来たることがなく、来処はなく、いかなる処所にも至って去ることもなく、去处はないからです。来たらず去らず、生ぜず滅しないもの、これを真の如来と名づけるのです。
世尊はなんと慈悲深いことでしょうか。衆生のため、汚れた衣をまとい、身を卑しくしてこの濁悪の世に来たり、衆生に仏の知見を開示し、経を説き法を説き、疲れを知りません。世尊はここで、一再ならず画竜点睛を施し、口の泡を惜しまず、眉を地に引きずり、袈裟の端は泥水にすでに浸かって濡れています。ただ衆生を邪見の泥沼から引きずり出し、仏の知見に悟入させ、そして仏と同じ見解、同じ行いをさせ、もはや荒野の小道や荒れ果てた野原の険悪な場所を歩ませないためです。
衆生の相に執着する習気はすでに骨の髄まで染み渡り、邪見の毒の棘は実に抜き難く、やむを得ず世尊に絶えず相を破りまた破らせ、様々な譬えや言葉を用いて、衆生に一つの相状もない実相の心を開示させています。しかしそれでもなお、非常に多くの者が、真実の無相の如来を見ず、ただ行き来し、行来去止する有相の如来を見るのです。しかし有相の如来の、その来去坐臥の相は、やがて消え去り滅して見えなくなることはないでしょうか。消え去った後、どこで如来を見るのでしょうか。その来去坐臥の相は、どこから来て、どこに滅するのでしょうか。またなぜ来たり去ったり、座ったり臥したりするのでしょうか。心ある者は、ここで大いに疑問符を付け、深く疑い、見逃してはなりません。
如来の来相は、五蘊の色身に依って相を現し、五蘊の七識の心に依って顕現し、元来は五蘊の中の行蘊であり、もし五蘊と七識がなければ、衆生が見る来相もありません。そしてこの来相は、来る前はどこにあったのでしょうか。何によって来るのでしょうか。この来相は生滅法であり、生滅法はすべて因縁によって生じ、来相には様々な縁が集まり、因によって出生し、因と縁があって、来相が現前します。衆生がこれを見ると、ただ来相だけを見て、来相が何処から来たのかを知らず、来相の因を知りません。これは迷える者が相に執着し、真理を識らないのです。衆生は相に執着し理に迷い、塵に合い覚に背くゆえに、塵労を発し、世間相が断たれず、生死が絶えません。生死の相から出離しようと思うなら、どうすべきでしょうか。もちろん、相を起こす因を求め、真如の理を識り、惑業を除き去り、本来に帰することです。
如来の去相は、五蘊に依って相を現し、七識に依って顕現し、元来は五蘊の中の行蘊であり、五蘊と七識は何に依って顕現するのでしょうか。去る前には、来たり住することがあり、来たり住する前には因があり、去る時も因を離れずに去るのであり、そうでなければ去ることはできません。去った後は、その相は跡形もなく消え去りますが、去る因は滅せず、それによって絶えず去り、さらに絶えず来たり、生じ、住し、異なり、滅するのであり、それゆえ循環してやみません。これは生機が盛んであり、生の縁が至る所にあり、まさに素晴らしい春のようです。如来の坐相と臥相も、元来は五蘊の中の行蘊であり、色身と七識に依って相を現し、色身と七識にもその相を現す因があります。この因によって、相が生じ、相が滅し、衆生はただ相と相の生滅を見るだけで、相の生滅の起因を見たことがなく、表相に迷い、真理を識りません。それによって生々してやまず、死々して絶えず、転々と流浪し、迷いの道から帰りません。
衆生は迷いを積み重ねて帰ることが難しく、やむを得ず世尊は八〇〇〇余回もこの娑婆世界に来たり、一方の手で天を指し、一方の手で地を指し、衆生に開示します。天上天下、唯我独尊!と。如来の智慧の徳相を大いに顕わし、衆生のために粘りを解き束縛を去り、塵労の悩みの垢を洗い清めます。もし大慈の父でなければ、誰がこのようにできるでしょうか。我々がもし如来の孝順の子であるならば、世尊が天地を指し示す時、すぐに右肩を偏袒し、右膝を地に着け、両手を合わせ、口に我が仏、如来至尊、我今見得、真実如来と唱えるべきです。これより徐々に仏業を継承し、仏に代わって教えを宣べ、衆生を導き、迷いを去り智を顕わし、仏の知見に入ることができるでしょう。もしこのように多くできれば、孝順の子として、我が仏の事業は後継者を得、仏法は光り輝き、慈航は普く渡し、天下挙げて祝い、十方が同じく入り、薩婆若海に至るでしょう。
では、衆生はどのようにして真理を識るべきでしょうか。世尊はさらに続けて説示されます。如来とは、来たる所もなく、去る所もない、故に如来と名づける、と。来たる所がないとは、如来が来ることのできる一つの処所もないということであり、それならば来処はありません。来処はないけれども、如来はしかるに常に時々処々に出現し、身はなくとも隠れることはありません。では来処のない如来は、すなわち不生であり、本来そこにあり、他の縁に依らず、自在に自主的であり、この如来を真の如来とするのです。去る所もない、所とは処所であり、行くことのできる一つの処所もない、すなわち不滅であり、不滅はすなわち時々処々に存在し、時々処々に顕現し、時々処々に用を起こすことであり、この如来を真の如来とするのです。真の如来は、来去の相がなくして来たり去り、来たり去りしながらも湛然として動かず、威風堂々として、如く来たり、如く去り、来たらず去らず、生ぜず滅しないのです。
衆生に真の如来を識らせるため、世尊は文殊と共に戯れを演じて比丘たちに真実の如来の義を示しました。ある時、比丘たちが講堂に皆座った後、世尊は講堂の扉を押し開け、五蘊の三十二相が赫々と大衆の前に現れました。世尊はそこで鵞王の歩みで、ゆっくりと法座の前に進み、ゆっくりと脚を組んで座りました。世尊が脚を組んで座り終えると、文殊菩薩は附尺を持って講卓を一拍し、宣言しました。「世尊の説法、終わりました!」と。比丘たちは世尊の法を聴こうと準備していたところ、突然文殊菩薩のこの宣言を聞き、皆呆然として、これがどういうことか分かりませんでした。そして世尊は比丘たちが呆然としているのを顧みず、ゆっくりと法座から立ち上がり、徐々にまっすぐに門口に向かい、そして扉を押し開けて外に出て行き、五蘊の三十二相はこれにて消え去り見えなくなりました。
諸君、応身仏の如来相は、すでに皆さんは見ました。三十二相、八十種好、威風堂々、巍巍煌煌として、何と荘厳ではないでしょうか。しかしこれらの相は、娑婆世界において、ついにわずか八十年間留まっただけで、見えなくなりました。これはきっと真の如来ではありません。では真の如来はどこにいるのでしょうか。どれなのでしょうか。実は法身如来は、決して応身如来から離れたことはなく、世尊が扉を押し入った一刹那から、世尊が扉を押し出るまでの全過程において、法身如来は常にその無面目の面目をもって顕現し続けていたのです。目の鋭い者は、直下に即ち見、慧眼をもって五蘊の背後にあるその彼を識るのです。このように識るならば、何と暢快であり、何と軽やかでしょうか。皆さんは世尊の五蘊の仮の相を捨て去り、その捨て去ることのできないもの、離れることのできないもの、決して生滅しないもの、来たらず去らないもの、その法身の真の如来を試しに見てください。良馬は鞭の影を見て走り、智ある者は五蘊の影を見て、真人を識ることができます。真人はどこにいるのでしょうか。咄!ここにいる。
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