この品において、世尊は菩薩が七宝の布施によって得る福德を語ることを通じて、実相心如来蔵 (tathāgatagarbha) の体性を深く細かに描写されています。如来蔵にとって、五陰 (pañca-skandha) が布施波羅蜜を修めて得た福德は、根本的に捨受 (upekṣā-vedanā) であり、神様は少しの一点たりとも享受することなく、福であるか否か、禍であるか否かを意に介さず、福と禍の存在をも知りません。また、如来蔵は貪心所を持たないため、福德やその他の一切の法を貪着することがなく、神様は一切の法に対して無欲無求であり、喜びも厭いもしません。菩薩は悟りの後、相を破って心空となるので、福德および一切の法に対して、貪求の心行を生じることもなく、喜びも厭いもせず、中道の捨受 (upekṣā-vedanā) を保ちます。これこそが真の菩薩の心行なのです。
原文:须菩提。若菩萨以满恒河沙等世界七宝。持用布施。若复有人。知一切法无我。得成于忍。此菩萨胜前菩萨。所得功德。
解釈: 世尊は須菩提にこう説かれました。もし一人の菩薩が、恒河の沙の数ほど多くの世界に遍満する七宝を用いて布施を行い、さらに別に一人の菩薩が、世間・出世間の一切の法の中に、一つの「我」も存在しないことを了知し、それによって無生忍と無生法忍を修成したとするならば、忍智を得た菩薩の得る功徳は、七宝を布施した菩薩の得る功徳よりはるかに殊勝である、と。
菩薩が七宝を布施して得る福德については、世尊はすでに何度も説かれており、その福德は無量無辺で、数え切れないものです。菩薩の布施には、福德だけでなく、その中から功徳も生じます。福德が増長すれば、心地が清浄 (viśuddha/pariśuddha) に保たれ、心性が調柔となり、禅定 (じょう) が増進され、智慧が増長し、道業が増進され、自ら真実の功徳の受用を得ることになります。これが菩薩の財布施 (dāna) によって得る果報です。そしてもう一人の菩薩は、すでに忍を得る程度まで修めており、内心深く一切の法がすべて無我であることを覚知しているため、無生法忍智を証成したのです。
一切の法の中にすべて無我であることを忍とするのは、どの程度の忍なのでしょうか。忍には、小乗の断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) によって証得される五陰 (pañca-skandha) 無我の無生忍と、大乗法の無生忍と無生法忍があります。小乗の無生忍は、四向四果に分けられます。そのうち初果向の忍は、真に我見を断じる忍ではありませんが、意識の上では、すでに五陰の虚妄不実を忍可しており、真に我見を断除する方向へ向かって、精進に観行 (vipaśyanā-caryā) を行っています。この時点では、意根が五陰無我の理に対して認可するところが欠けているだけであり、これには意根もまた禅定 (じょう) の中で絶えず観行 (vipaśyanā-caryā) 参究する必要があります。意根がひとたび明了になれば、それが真の断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) であり、この時初果人となります。
初果人となった後も、五陰無我の理に対して、さらに深く細かな観行 (vipaśyanā-caryā) を行わなければなりません。この過程は、意識と意根がより深い無生忍智を獲得する過程であり、次第に定力を獲得して煩悩を断除する過程であり、さらに意根が自己の五陰に対する執着を徐々に断除していく過程でもあります。この過程の中で、意識と意根はともに絶えず忍を必要とし、より深い層次の忍を必要とし、意根が徹底的に人我執を断除し尽くすまで続きます。これが小乗人が獲得する無生忍です。
大乗の無生忍は、菩薩たちが第八識を証得以後に獲得するものです。菩薩は五陰無我の理に忍するだけでなく、さらに第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) の不生不滅の理に忍しなければなりません。第八識の無生に深く忍し、第八識の空と有の二種の体性に忍し、第八識の不垢不浄 (na saṃkleśo na vyavadānam) の体性に忍し、第八識のすべての中道の体性に忍し、第八識のあらゆる方面の体性に忍するのです。そうすると菩薩の心はますます清浄 (viśuddha/pariśuddha) となり、定力はますます増強され、煩悩はますます軽微となり、智慧はますます深細となります。その自心の功徳の受用はますます広大となり、菩薩の果位は七住位から、次第に十行位、十回向位へと増進し、初関を破ることから、重関を破ることへ、さらに牢関を破ることへと進み、定慧はいっそう深細となります。
しかしながら、これもまだ五陰の人無我の範囲内の忍であり、その範囲はまだ十分に広大ではなく、忍の度合いもまだ十分に深遠ではありません。初地菩薩以上の無生法忍に達してこそ、その忍の範囲はより広大となり、その忍智はより深広となるのです。地上菩薩の無生法忍は、一切の法の中にすべて無我であることを忍とするものであり、これは人無我を証得しただけでなく、同時に法無我をも証得したものであり、その法無我慧、無生法忍智は地地に増上し、ますます深妙となっていきます。
地上菩薩は如来蔵 (tathāgatagarbha) が五蘊の中で運作する様子を現観することができ、如来蔵が十八界の万法の上で運作する様子を現観することができるため、如来蔵がいかにして五蘊を出生し、いかにして十八界の万法を出生するのかを深く知っているのです。菩薩は一切の法の上で、如来蔵の運作の行相を観察し、一つ一つの法がすべて如来蔵が心所法を運用して種子を出力することによって生成されたものであることを知ります。如来蔵を離れて、自らの生住異滅を有することができる法は一つもなく、すべて如来蔵があるからこそ、一切の法相を出生することができ、一切の法相をしばらくの間留めることができ、一切の法相を次第に変異させることができ、一切の法相を散壊消失させることができるのです。如来蔵を離れれば、出生し、留まり、変異し、滅去することのできる法相は一つも存在せず、それゆえ一切の法相はそれ自体虚妄不実であり、夢・幻・泡・影のようであり、空中の花のようであり、了不可得であり、その本質はすべて如来蔵なのです。一切の法がすべて真実でなく、自体性を持たず、すべて如来蔵性である以上、当然無我なのです。
その中の一切の法には、世間・出世間のすべての一切の法が含まれます。如来蔵によって変現され、後天的に出生され、三界の世間の中に存在するものであれば、過去世の一切の法、未来世の一切の法、および現在世の一切の法、十方世界の一切の法を含めて、これらはすべて無我です。具体的に言えば、一切の法には色法と心法が含まれ、色法には宇宙の器世間、衆生が必要とする生存環境が含まれ、主に衆生の五陰の色身、すなわち五根、五塵および法処所摂色が含まれます。心法には七識心と七識の心所法が含まれます。総括して言えば、衆生の六根、六塵、六識といった十八界法、十二処法、五陰法です。
これらの法は、すべて一真法界の如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に存在し、生滅し、変化し、起用しており、すべて真心如来蔵が出生し、変現し、執持したものです。すべて如来蔵が出生し変現したものである以上、それは有生有滅の法であり、自在でなく自主的でない法であり、自ら主宰することができない法であり、無我性の法です。我性を有する法は、生滅変異することがなく、自ら主宰することができ、自ら独立して存在することができ、他の縁を必要とせず永遠に長存することができ、一切の功徳利用を円満具足しているものです。
無我の法は、これらの性質を具えていません。無我の法は自ら独立して存在することができず、いくつかの外縁に依存して初めて存在し起用することができ、また如来蔵が絶えず種子を輸送してその存在と運行を維持する必要があり、さもなければ滅去してしまいます。それゆえ、三界の世間のすべての一切の法は、生滅変異するものであり、すべて無我です。そして出世間の如来蔵法は、一部の我性を有し、自ら独立して存在することができ、外縁を必要とせず、出生と滅亡がなく、自在で自主的であることができますが、その中には七識の染汚業種が含蔵されており、これらの業種は生滅変異するものであり、如来蔵にも転変を引き起こさせ、如来蔵の功徳利用にもいくらかの影響を与えます。
この時の如来蔵の中の種子は七識の薫染を受けるものであり、中の種子が薫染を受けられる以上、如来蔵全体は不変異ではなく、完全に我性を有しているとは言えません。別の面から言えば、如来蔵自体にも自らの識種子の流注があり、これらの識種子が刹那に生滅変異することによって、はじめて如来蔵の存在と運転を維持することができるため、如来蔵もまた完全に我性を有しているわけではなく、やはり無我性なのです。仏地の法身仏 (dharma-kāya-buddha) である無垢識 (amala-vijñāna) だけが、完全に我性を有しているのです。その時には七識の業種の生滅変異は終わり、無垢識 (amala-vijñāna) はもはや薫染を受けず、変異することもなく、生滅の種子がなく、自心の識種子の流注も停止し、刹那生滅の現象は存在しません。それゆえ、仏地の無垢識 (amala-vijñāna) こそが完全徹底した我であり、その功徳利用は完全に発揮され、もはや七識の染汚業種による局碍と制限を受けることがないのです。
菩薩は一切法無我を証得したため、一切の法の中にすべて無我であることに忍することができ、甚深の無生法忍の智慧を獲得し、その功徳の受用は極めて多く、極めて大きく、極めて深く、算数や譬喩では及ぶことができません。菩薩はこの甚深の唯識種智によって、次第に仏地に入り、福慧ともに円満具足し、三界の世間の尊となり、人天大衆の師となり、十個の名号の功徳利益を具足します。十方世界に諸国土を建立し、成仏を示現し、無量の衆生を広く度することができるのです。それゆえ、菩薩が一切法無我を証得したその無生法忍智の功徳の受用は、菩薩が七宝を布施する功徳と福德をはるかに超勝しており、その中の差異は比べることもできず、言葉で言い表すこともできません。
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