鶴千行:念頭を覚察するとき、念頭の背後にある動機が見えてきます。まず動機があり、それから念が生じる、つまりまず心が動き、それから念が出るのです。覚察の初期には、念頭が出てからかなり経ってからようやく覚察が起こりますが、覚察の功夫(くふう)を繰り返し練習するうちに、次第に念が起こった瞬間にすぐ覚察を起こせるようになります。しかし、念頭がまだ起こる前にすでに覚察している状態になると、まず心が動くことがあり、それから念が出てくるのが見えるのです。
講評:あなたがこのように覚察できるということは、心がとても静かで細やかになっていることを示しており、禅定はなかなかのものです。先に心が動き、動機や目的があるというのは意根のものであり、その後に念頭が生じるというのは意識のものです。観察しやすい表層の念頭は意識のものであり、隠れていて観察しにくい深い念頭は意根のものです。この段階に至れば、禅定は基本的に問題なく十分であり、智慧も問題なく、断我見(ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)に足るものがあります。もちろん福德の配合も必要であり、福を修めなければなりません。禅定と観行 (vipaśyanā-caryā) の功夫だけに固執してはいけません。
鶴千行:念が起こった後、その念が起こった原因と動機を覚察するとき、我執の影がぼんやりと見えます。動機にも優先順位があり、最優先なのは自分の安全、肉体が傷つかないことです。次に我貪で、心を起こして貪愛し、貪って得られなければ瞋が生じます。さらに微細な我慢もあり、見せびらかしたい、認められたい、体面を保ちたいなどです。これはまだかなり粗い段階かもしれません。表現したいという動機にはもう一つ、「退屈だから賑やかになりたい」「未来が心配だから前もって計画したい」「過去を後悔しているから繰り返し振り返る」などもあります。これらはすべて念頭の前の動機です。
講評:念頭が生じる原因と動機はすべて意根のものです。意根が先に目的性を持ち、それから主張があり、その後に念頭が生じます。意根には我見と我執があるので、至る所で自我のために考え、常に自分を誇示したがります。そこに目的性が生じ、その後に念頭が現れ、さらにその後に身口意行が現れるのです。したがって、一人ひとりの身口意行の背後には、必ず意根の目的性があり、意根の計らいがあり、意根の思惑があるのです。
鶴千行:これらの観察は確かにぼんやりとしたものですが、無数回の観察の結果であることは確かです。経験の総括もあれば、意識による推測もあります。はっきりと言い表せませんが、一つ確実に言えるのは、無数回にわたって自分の念頭の前の動機が何であるかを見たとき、この動機を発動させる力が明らかに絶えず弱まっていくということです。つまり次第に外境への興味を失い、自然と貪らず瞋らなくなるのですが、習気はまだ残っており、我執は依然として働いていて、おそらく貪瞋痴が薄くなったのでしょう。この状態では、世界一の富豪になれと言われても少しも興味がなく、玉皇大帝になれと言われたらなおさら退屈に感じます。これらは五欲の強化版にすぎないのではないでしょうか?
講評:意識がますます多く意根の動機を観察するようになると、両者はともに警戒するようになり、意根は次第に動機と目的性を減らし弱め、より清浄 (viśuddha/pariśuddha) で純粋で、無心で無功利なものへと変わり、煩悩が軽くなり、心性が清浄へと転変し、品徳の修持が現れ、徳が立ちます。これはなんと喜ばしいことでしょう! 世の中の人々はますます品徳を重んじなくなり、修為を重んじなくなり、ますます功利的になり、富や名利といった虚栄のものへと向かい、ますます自我に囚われるようになりました。その結果、ますます三悪道へと趣向し、世界はますます乱れていくのです。
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