如春:観行 (vipaśyanā-caryā) を通して、五蘊への貪りが根本であり、世俗への貪りが現象であることがわかったので、五蘊と世俗の苦・空・無常を結びつけて観行してみることにした。意根はとても意欲的で、一日中頭の中が観行の法でいっぱいになり、払いのけても捨てきれず、夜も眠れず、頭が張って熱くなるので、立ち上がって観行の内容を書き出して、脳を冷まして整理するしかなかった。書き終えて横になっても考え続け、頭が止まらないようで、繰り返し繰り返し明け方の四時過ぎになって、ようやくうつらうつらと眠りについた。
眠ってまもなく、突然体が揺れているのを感じ、目を覚まして何事かと見てみると、遠くの動車(高速列車)が発するリズミカルな音のせいだった。うつらうつらの間、自分が車の中に座っているつもりでいた。七時にまた起きた。普段、私の睡眠蓋はまだやや重いほうだが、意根が精進し出すと、眠らず休まずにいられるようだ。この法の観行がうまくいき、意根が満足すれば、一息ついてぐっすり眠れるようになる。
評:五蘊は世俗を含み、五蘊の世間こそが俗世間である。修行に精進しているとき、意根は俗世への執念を観行・思惟 (manasikāra/manana) と仏法の修証への執念に置き換える。心念が転じれば、業も転じ、果も変わる。心念がねじ曲げられなければ、心はまだ完全には道業の上になく、業は転ぜず、果報も変わらない。如春のような精進は、完全に意根が自発的に精進しているのであり、意識に督促される必要はなく、むしろ意識のほうが意根に引っ張り回されて振り回され、十分な休息を得られないほどである。
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