観行とは、目前に法が存在していることであり、法を見つめて観察することです。現在、直接触れ合うことのできる法を観ることであり、触れ合えないものは観ることができません。知らない法や、まだ証得していない法は観ることができず、ただ参究し、探し求めることしかできません。参究とは、目前や現前にはない法、触れ合うことのできない未知の法、まだ実証していない法を、特定の参禅の方法を用いて探し求め、見極め、実証することを目的とします。
例えば、呼吸を観るのに観行の方法を用いるのは、呼吸という現象が現前に存在しており、正常な人なら誰でも観察できるからです。現前にある法を観察することを観行といいます。四念処を観るのに観行の方法を用いるのは、四念処である身、受、心、法が現前に存在する法であり、四念処の内容を理解している人なら誰でも観察できるからです。ですから、四念処観は観行と呼ばれます。一方、如来蔵という法は観行の方法を用いることができません。なぜなら、衆生は無始の劫以来、これに対して無知無覚無証であり、如来蔵の法に対して無始の無明があるからです。現在まだ如来蔵を見極めていない以上、観行の方法は使えず、必ず参究の方法、すなわち参禅を用いなければなりません。
まだ如来蔵を証得していなければ、如来蔵を観察することはできません。もし直接観ようとするなら、それは心の中に仮想的な如来蔵を設け、自分で偽りの如来蔵を見つめて、如来蔵がどうのこうのと言うことであり、これらはすべて想像や幻想であり、いわゆる観は自らを欺くものです。証得していない時は未知の時であり、必ず五蘊が活動しているその場で参究し、探し求め、探さなければなりません。必ず参禅の功夫を用いるべきで、観や観行の方法を用いてはなりません。証得していない時の観は、出来合いの理論を実在のものと見なし、すでに証得したものと見なすことであり、仮想的に如来蔵を思い描いてからそれを観るのです。一方、参とは、知らず見えない状態から、今まさに知り今まさに見る状態へ至ることであり、仮想ではなく真の見であり、すでに知り学んだ如来蔵を払い去り、如来蔵を未知の法として探求し、探し当てて初めて証得と呼ぶのです。
観と参は、方向性の異なる二つの功夫であり、混同することはできません。ましてや互いに代用することはできず、そうしなければ結果は想像を絶するものになります。ですから、理論を徹底的に学ばずに盲目的に努力することは、盲人があちこちぶつかりながら進むようなもので、身体を傷つけやすく、非常に取るに足らないことです。理論を軽んじれば、自分で道を誤り、問題があっても気づかず、自分は間違っていないと思い込んでしまい、結果は良くないものになります。道標や地図をはっきり見ずに、うつむいて進む者がいるでしょうか?私が話すすべての法は、他者にとっては理論であり、道標や地図であり、皆さんが道を歩く際の指針となるものです。よく研究してから道に出れば、道を誤ることはありません。もし理解が不十分で、参禅の方法も知らず、できないまま、盲目的に修行し、自分で誤解して他人を誤った方向に導くなら、その罪過は大きいのです。
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