衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年05月16日    土曜日     第1開示 合計4713開示

観行 (vipaśyanā-caryā) と参究の区別

観行とは、目の前に法が存在していることであり、法を見つめて観じることであり、当下一刻に直接触れることのできる法を観じることです。触れることのできないものは観じられません。知らない法、まだ証得していない法は観じることができず、ただ参究し、探し求めるしかありません。参究とは、目の前や現前にはない法、触れることのできない未知の法、まだ実証していない法を、特定の参禅の方法を用いて探し求め、見極め、実証することを期すことです。

例えば、呼吸を観じるのに観行の方法を用いるのは、呼吸という現象が現前に存在しており、正常な人なら誰でも観察できるからです。現前に存在する法を観察することを観行と呼びます。四念処を観じるのに観行の方法を用いるのは、四念処の身・受・心・法は現前に存在する法であり、四念処の内包を理解している人なら誰でも観察できるからです。ですから四念処観は観行と呼ばれます。しかし、如来蔵という法は、観行の方法を用いることはできません。なぜなら、衆生は無始以来、これに対して無知・無覚・無証であり、如来蔵の法に対して無始無明があるからです。現在まだ如来蔵を見識していない以上、観行の方法を用いることはできず、必ず参究の方法を用いなければならず、参禅が必要です。まだ如来蔵を証得していなければ、如来蔵を観察することはできません。直接観ようと言うならば、それは心中に仮想の如来蔵を設け、自分で偽りの如来蔵を見て、如来蔵はこうだああだと言うことであり、これらはすべて想像や幻想であり、いわゆる観とは自欺欺人(自分を欺き人を欺くこと)に過ぎません。証得していない時は未知の時であり、必ず五蘊が活動している当下に参じ、探し求め、探究しなければなりません。必ず参禅の功夫を用いるべきで、観や観行の方法を用いてはなりません。証得していない時の観は、出来合いの理論を実有と見なし、すでに証得したものと見なし、仮想の如来蔵を想定してから観じることです。一方、参とは、知らず見えずの状態から、当下に知り当下に見ることへ至ることであり、仮想ではなく真に見ることです。すでに知り学んだ如来蔵を払拭し、如来蔵を未知の法として探索・探究し、それを見つけて初めて証得と呼ぶのです。観と参は、方向性の異なる二つの功夫であり、混同することはできず、ましてや互いに代替することはできません。そうでなければ、結果は想像を絶するものになります。ですから、理論を徹底的に学ばずに盲目的に努力することは、盲人があちこち手探りでぶつかるようなもので、体を傷つけやすく、非常に取るに足らないことです。もし理論を軽視し、自分で道を誤っても、問題に気づかず、自分は間違っていないと思い込めば、その結果は良いものではありません。道標や地図もはっきり確認せずに、うつむいて道を急ぐ者がいるでしょうか?私が話すすべての法は、他人にとっては理論であり、道標や地図であり、皆さんが道を歩くための指針となるものです。よく研究して理解してから道に出れば、道を誤ることはありません。もしまだ理解しておらず、参禅の方法も知らず、できないのに、盲修瞎練(盲目的に修行すること)をし、自分で誤解した上に他人まで誤った方向に導けば、その罪過は大きいのです。

——生如法師の開示
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