衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年05月19日    火曜日     第1開示 合計4716開示

観じて久しければ自然に煩悩降りて智慧生ず

鶴千行:定力がますます深くなるにつれて、次第に脳が考えたくない、念を起こしたくないようになり、人が質問してきたときにも、即座に答えることができます。しかし答え終わった途端、ふと「今、誰が話していたのか」と気づき、とても見知らぬ、遠い存在のように感じられ、自分が言ったのではないようでありながら、実際に言ってしまった、という奇妙な感覚です。大通りを歩き、車で街を通り過ぎ、見慣れた場所を見ると、まるで別れを告げているかのようです。

点評:意根が定の中で長く思量 (manasikāra/manana) していると、智慧が生じてきます。意識が時間をかけて思惟し吟味しなくても、意根が意識に即座に答えさせることができるのです。また、反観力 (pratyavekṣā-bala) が良いので、心と五陰 (pañca-skandha) が分離し、誰かが話したことに気づくことができ、その話した五陰はまるで自分ではないかのように、とても見知らぬものに感じられます。この状態は、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) まで遠くありません。見慣れた場所に別れを告げるというのは、心が六塵の境界から次第に分離し、もはや固く結びついていないということです。これは解脱しようとする証なのです!

鶴千行:さらに私は、強烈な執取 (upādāna) の心が生じたとき、心臓のあたりが緊張し始め、それに伴って神経系が緊張し、筋肉が収縮してこわばり、心拍が速くなり、体が硬直し、顔色が不自然になり始めるのを観察しました。淫心は下から上へ向かうようで、瞋恨は上から下へ向かうようで、貪愛のときはまず心臓のあたりが緊張して上へ持ち上がります。

点評:意根の煩悩が生じたとき、全身が意根に呼応し、意根によって中枢神経系を通じてしっかりと制御されています。これらの現象は、次のことを十分に証明しています。第一に、意根には煩悩心所法があり、意根には情緒があるのであって、無記 (avyākṛta) の性質ではないということ。第二に、煩悩心所法は主として意根のものであり、その次が意識のものであり、意識の煩悩は軽く降伏し断除しやすいのに対し、意根の煩悩は重く、発見しにくく、降伏し断除しにくいということ。第三に、身体に変化を生じさせることのできる煩悩は必ず意根のものであり、身体に変化がなく、痛痒に関係しない煩悩こそが意識のものだということです。

鶴千行:今は確かに記憶力が以前ほどではなくなりました。多くの人や事柄が心に留まらず、繰り返し思索して振り返ることもしないからです。実は、話すときに脳を経由せず、即座に口から出ているとも感じています。昨日突然、話すというのは脳の関与を必要としないのではないかと感じました。では脳は何の役割を果たしているのでしょうか。脳がまっさらな空白の状態であるにもかかわらず、言葉は口から出ていき、しかも脳で考えた後よりも上手く話せており、自分でもこれは誰の言葉なのかと不思議に思います。

点評:心の無い人の記憶力は悪くなったように見えますが、それは心に選択性があり、修道という大事なことだけに心を用い、どうでもいいと感じることは覚えられなくなるからです。もし心が選択をせず、何事にも心を用いたら、禅定は修めません。捨てることがあってこそ、得るものがあるのです。話すのに脳を経由しないというのは、意識の思惟過程を経ないということで、意根が直接答えを出すのであり、しかもそれは智慧的な答えで、より正確で信頼できるものです。意識は疑問に思います。「私はっきり考えてもいないし話してもいないのに、どうして言葉が口から出ていったのか」と。意識は疑問に思っていればいいのです。遅かれ早かれ、あなたはそれほど重要な存在ではなく、何事にもあなたが使われるわけではないと分かる日が来ます。

鶴千行:弟子は今、心の中から自然に仏号が湧き出てきます。暇なときには自分から仏号が浮かび、四字六音のときもあれば、六字にリズムをつけるときもあり、ただ念じてリズムのないときもありますが、何の制御もしていません。現れる仏号がどんなリズムで、何字であるかは、すべて勝手に湧き出てくるもので、おそらく以前の念仏 (buddhānusmṛti) の習気が湧き出ているのでしょう。この状態から脱しようとも努力し、身体の皮膚・毛髪・筋・骨・内臓などの汚れ不浄を観察しています。観察した結果、今では自分を見ても、誰を見ても、まるからくり人形のように見えます。清醒な状態では、はっきりと淫心・貪心・瞋恨心が生じなくなりました。ときどき突然少し湧き出てくることもありますが、気づいた瞬間にすぐ消えます。しかしまだ功夫が足りないと感じています。いくつかの夢の中で、まだ淫心と恐怖があり、その根が依然として残っていて、断除するのが難しいからです。

点評:以前よく念仏していたので、薫習されており、今では意根が自動的に念仏するようになったのです。以前の念じ方と同じように。ただ念仏するだけではまだ足りず、観行 (vipaśyanā-caryā) によって断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) に着手し、さらに多くの福を修め、大乗法を参究すべきです。私はあなたの智慧がかなり優れているのを見ており、断我見は問題なく、明心もそれほど難しくないと思います。たとえばあなたは誰を見てもからくり人形のように見えると言いましたが、そのからくり人形の背後にあるからくりを参究すれば明心できます。また、あなたはいつも誰が話しているのかと疑問に思っていますが、その疑いを持ち続け、分からなければ大乗の方法で参究しなさい。大乗見道の条件を満たせば、参究もあなたにとって難しいことではありません。大きな心を発して努力しなさい。いつも自分のあの些細なことばかり考えていてはいけません。個人的なことはどれも大事なことではありません。仏教のために考え、精進すれば、必ず大きな果報を得ることができます。


——生如法師の開示
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意識に思いが現れる前には、必ず先に意根の心の動きがある

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非一非異問題に対する思考

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