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日常法話

2026年05月20日    水曜日     第1開示 合計4717開示

非一非異問題に対する思考

如春:この二日間、法義「色蘊と如来蔵は非一非異」を読んでいるうちに、頭の中に一つの疑問がひらめきました。五蘊は我に非ず、我と異ならず、相在せず、というのは「非一非異」と同じ意味なのか?もし同じなら、なぜこのように異なる表現を使うのか?考えてみたのですが分からず、いったん脇に置いて、それ以上はあまり意識的に考えないようにしました。しかし心の中ではまだ気にかかっていて、用事があるなしにかかわらず、時折また思い返してみたりしていました。

昨晩、坐禅をしている時、この問題が頭の中に浮かびました。まず意識が分析し、例を挙げて思考しました。例えば、お米とご飯。ご飯はお米に非ず、しかしお米を炊いてできたものであり、お米と異なりません。ご飯はお米の中になく、お米はご飯の中になく、お米とご飯は同時に存在することができません。お米とご飯は、同一の物質が現している異なる形態であり、ご飯とお米は非一非異です。お米はさらにポップコーンになったり、粉に挽いて米糕や年糕、桂花糕など様々な異なる食べ物を作ったりすることもできますが、その本質はやはりお米です。これは如来蔵が様々な五蘊を幻化するのと同じ道理で、その本質はすべて如来蔵なのです。答えは「一つの意味の二つの表現」と理解できます。

意識はこの答えが合理的かどうかを引き続き思惟し、様々な角度から反対の理由を探し出して照合してみると、基本的に筋が通っていると感じました。まもなく、頭の中に二つの画面が次々と現れました。一本の火のついた煙草が煙を漂わせている画面と、映画のスクリーン上のある人物の映像です。意識は心で会得し、一瞬でその意味をのみ込みました。煙霧は煙草に非ず、しかし煙草から来たものであり、煙草と異ならない。煙霧は煙草の中になく、煙草は煙霧の中になく、相在せず。すなわち、煙霧は煙草に非ず、煙草と異ならず、相在せず、ということです。一本の火のついた煙草は、様々な形態の異なる煙霧を漂わせることができますが、煙霧と煙草は同一の物質ではありません。それらは非一非異なのです。

スクリーン上の映像は本人に非ず、しかし本人が演じることから生じたものであり、本人と異なりません。映像は本人の中になく、本人は映像の中になく、相在せず。すなわち、映像は人に非ず、人と異ならず、相在せず、ということです。一人の俳優は複数の異なる役を演じることができ、私たちは異なるスクリーン上で、彼が演じる様々な異なる役の映像を同時に見ることができます。現代から古代まで、幼い頃から老いたるまで、男から女まで。しかしスクリーン上で本人を見ることはできず、本人と役の映像は大きく異なるかもしれません。映像と本人は、非一非異なのです。まるで私たちは如来蔵が幻化した映像しか見ることができず、如来蔵そのものを見ることができないのと同じです。

お伺いします:これらの思考の内容は正しいでしょうか。後から現れた二つの画面は、意根からの答えなのでしょうか。意識が以前にこのような思考をしたことがあり、それが意根を薫染したためでしょうか?

講評:以上の思考の方向と方法はすべて正しく、用いられた比喩はとても適切です。同じ道理で証明できるという原則に従えば、如来蔵とその生じた五蘊が非一非異の関係であることを証明できます。一の法から直接引き生じて別の法となるものは、すべて非一非異の関係にあります。五蘊は如来蔵から引き生じ、変化してきたものであり、両者は非一非異の関係なのです。

思考した後に合理性をチェックする時に現れた画面は、意識が引き生じた独影境なのでしょうか、それとも意根が顕現した定果色なのでしょうか?これは当時定中にあったかどうかによります。意識が反観して思考の過程と結果の正しさを検討していた時、比較的深い定の中にいたかどうか、それによって意識の思考が次第に弱まり次第に消えていったかどうかによります。もし意根が定中で行っている反観であれば、画面は意根が自動的に顕現した定果色であり、信頼できる現量の境界です。もし意識が禅定のない状態や浅い定の中での思考であれば、画面は意識が引き生じた独影境であり、非量の境界で、信頼できません。頭の中の画面の信頼性を判断するには、禅定の深浅によって定め、心が非常に専一しているかどうかによって定め、意識の思考から引き生じたものか、意根の思考から引き生じたものかによって定める必要があります。


——生如法師の開示
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