如春:膿痰や屎尿で満たされたものが皮嚢に包まれ、色身の「顔如玉(玉のごとく美しい顔)」として粉飾され、さらに愛や情をもって粉飾することで、世間の人々の貪淫好色の本性が覆い隠されている。どれほど多くの詩詞歌賦がこれを盛んに讃えていることか。これは本来愚痴なのに、華やかな文字の粉飾によって才能豊かなものへと変えられてしまった。まことに顛倒である。
色身とは本来、屎尿膿痰の製造器である。しかし世間の人は智慧がないがゆえに、これに対して無比の貪執を抱く。ごらんなさい、世間のあらゆる業界――美容・美髪・服装業、養生・保健・医療業、飲食・文化・娯楽・観光業など――どの業種がこの五蘊の色身に奉仕するために存在していないだろうか。その目的は、衆生をこの世間で享楽に耽らせることにある。この世間は精巧に設計された詐欺であり牢獄であり、その設計者は魔王である。修道して五蘊の享受を貪愛しなくなって(戒)、さらに定慧を修得してはじめて、魔王のこの詐欺を見破ることができ、五蘊皆空を照見する時に、魔王の牢獄を打ち破ることができるのである。
テーブルいっぱいに並ぶさまざまな動物の死骸が、飲食文化として粉飾されている。千百年のあいだ碗の中の羹(あつもの)、怨は深きこと海のごとく恨みは平らぐること難し。世間の人はこれを禄と呼び、人生における大きな追求と享受とし、怨の海を福の海と見なしている。世間にどれほど多くの人々、どれほど多くの業種がこのために奉仕していることか。世上に刀兵の劫があることを知らんと欲せば、但だ夜半の屠門の声を聴け。衆生はこの舌根が味塵を貪愛したばかりに、どれほど多くの悪業を造り、どれほど大きな代償を払ってきたことか。ましてその他の五根の貪愛もある。衆生の罪業はまことに語り尽くせない、言い尽くせない。私たちは人間として生まれたことを誇りとし、喜ぶことができるだろうか。人間の消化系統は死骸を焼却する系統であり、胃腸は餓鬼道である。衆生は業力のなすところ、食べずにはいられない。仏法を学び修道してはじめて、自らの業力を転じ、食習慣を変えることができる。たとえば天人は飲食を取らず、香りを嗅ぐだけで満腹になる。これはなんと良いことか、なんと手間が省けることか。さもなければ、今は人が羊を食べ、未来には羊が人を食べる。輪回はやまず、戦争は止まず、苦難は絶えない。
五濁悪世が無明と我見によって粉飾され、太平盛世とされている。衆生は盲目的に栄華富貴を追い求め、腐朽した心、汚れた手段によって、高貴な身分・地位・名声を打ち立て、それを誇示する資本とし、五蘊の楽を享受する資本、すなわち三界に繋縛される資本とした。自ら繭を作り自らを縛るのである。この枷をより頑丈に、より高級に作り上げるほど、いっそう誇らしく思う。あなたは言ってみなさい、これが顛倒でないと言えるのか。栄華を慕わず富貴を恋わず、それによって生じるさまざまな五蘊の感受を貪らなければ、それに繋縛されず、自在を得ることができる。色声香味触法に触れず貪り求めなければ、五蘊の感受を受けず生じさせない。受なければ愛せず、愛なければ取らず、取なければ有らず、有らなければ生ぜず、生ぜなければ老死憂悲苦悩がない。十二因縁の鎖は断たれ、苦を離れて解脱するのである。もっと簡単に理解するなら、六根が六塵を貪愛しないことを戒と呼び、戒より定を生じ、さらに慧を生じれば、苦を離れることができる。ただ諸仏菩薩のみが慈悲深く、衆生がかくも迷惑顛倒しているのを見かねて、たびたび雲端より降りてこられる。衆生の慧眼を開き、衆生の賤しい骨を換え、衆生の我見を断ち、衆生を率いて共に波旬と戦うことを畏れず、仙気飄飄、威風凛々である。
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