如春:若い頃にこの詩を読んだとき、とても美しいと感じ、その深い情感に心を動かされました。今改めて読むと、自分の愚かさと、この詩の荒唐無稽さを深く知りました。太平の盛世には「回眸一笑百媚生、六宮粉黛無顏色」と言われ、三千の寵愛を一身に集めます。国難が迫ったときには「六軍発せず奈何ともすべなし、宛転の娥眉馬前死す」と、紅顔は禍水となり、皇帝の罪を背負わされます。君主の偽善:「君王面を掩い救う能わず」。男女の愛情はいかに偽り多く、いかに移りやすいことか。君主はいかに現実的か。江山を守るために愛する人を犠牲にし、その命をもって六軍の怒りを鎮め、自分は逃げおおせるようにするのです。
詩人はこの薄情を、帝王の深い情として美化し、千古の絶唱としました。「在天願做比翼鳥、在地願為連理枝。天長地久有尽時、此恨綿綿無絶期」。それならば、なぜ妃は死に、君だけが生き残ったのか。なぜ自らの手で楊妃を死なせたことを恨まず、今の自分の深い情が託す先がないことを恨むのか。これはとても荒謬ではありませんか。詩人がどう考えていたのか分かりません。その本来の意図が、この詩によって世人を警醒しようとしたのかどうかも分かりません。しかし詩全体を通じて、むしろ帝王の政治的无能と、その薄情で偽善的で利己的な醜悪な素顔を覆い隠し、誤導している面が大きいのです。その政治的失敗を、楊玉環があまりにも美しく心を動かす存在であったこと、紅顔禍水であったことに帰し、王朝の衰亡を招いたとしているのです。貴妃は最後、この男女の情愛の苦しみの虚妄を見破ることができたのでしょうか。自分が寵愛を恃んで驕り、盛世の栄華を貪って享受したことが今日の苦い果実を結んだのだと、自ら省みたのでしょうか。福が尽きて亡くなったのですから、誰を恨めというのでしょうか。
古来より今日に至るまで、どれほど多くの男女が物質と情愛を貪って耽溺し、盲目に飛蛾が火に赴くように、何のためかも分からず、今この瞬間のこの感覚だけを顧み、どんなに苦しくても甘んじて受け入れ、どれほど大きな代償を払っても振り返らないのでしょう。世人はまた功名をも渇望します。この詩は千古にわたって流布し、万人に誦せられ、人々の男女の情愛への羨望と憧れをかき立ててきました。しかし男女の情こそが輪回の主因であり、貪愛すればするほど繋縛が深まるのです。これにはどんな因果を背負わなければならないのでしょうか。考えるだけでも本当に恐ろしいことです。
人類の業力が、人にこれほど強烈な渇望と希求を抱かせ、これほど浅薄な心智・情感と邪謬な思考パターンを持たせているのです。これを転換させるのは実に難しいことです。衆生はこれらの苦難に対して、厭離するどころか、かえって深く貪愛し、六根は絶えず六塵を貪愛しています。それは絶えず苦を貪愛していることに等しく、苦を知らず、苦を貪愛していて、どうして解脱できましょうか。大菩薩だけがこの頑固な業力を引き拔き、人類のこの根深い認知と貪求を転換させることができるのです。それは人類の遺伝子改造工程にも相当するもので、実に容易なことではありません。世間の苦難を観行 (vipaśyanā-caryā) できればできるほど、三宝への感謝は深まります。
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