有覆無記(うふくむき)について、覆とは覆い隠し遮るという意味です。覆っているものは何か?それは意根(いこん)である第七識(だいしちしき)です。何を覆っているのか?意根自身の清らかな智慧を覆い隠し、自らが大乗・小乗の真理や真相、実相を認識できなくしているのです。なぜ覆う作用があるのか?それは自らの無明(むみょう)や煩悩(ぼんのう)があるからです。故に意根には無明や煩悩があり、それが六道(ろくどう)の生死輪廻(しょうじりんね)を引き起こしています。意根に無明や煩悩があり、かつ主宰する識であるならば、五陰身(ごいんしん)が作り出す身口意(しんくい)の行い、悪業(あくごう)の行いも、意根が主宰して作り出したものではないでしょうか?もちろん意根が主宰して作り出したものです。これらの身口意の行いは全て意根の心行(しんぎょう)や心性(しんしょう)を表しており、悪業は意根の悪心所法(あくしんじょほう)や煩悩心所法(ぼんのうしんじょほう)を表しています。そうであれば、意根は単に不善不悪(ふぜんふあく)の無記心(むきしん)なのでしょうか?決してそうではありません。意根には善心(ぜんしん)もあり、悪心(あくしん)もあり、不善不悪の心もあります。修行の根本は意根を修めることにあります。もし意根に悪心や煩悩心、無明心がなければ、何を修行と言えるでしょうか?六識(ろくしき)にも悪心や煩悩心、無明心はなくなるでしょう。そうなれば、衆生は仏でなくとも、仏に近い存在となるでしょう。
意根が有覆無記性(うふくむきしょう)を持つという説は、仏典に由来するものではなく、古の唯識師(ゆいしきし)の論書に基づいています。そして、もし智慧が地上菩薩(じじょうぼさつ)の水準に達していなければ、意根の心性(しんしょう)について現量観行(げんりょうかんぎょう)することはできません。それは禅定(ぜんじょう)と智慧が不足しているからです。故に唯識師は地上菩薩と同義ではなく、甚深な唯識法(ゆいしきほう)を現量観行する道種智(どうしゅち)や唯識種智(ゆいしきしゅち)を持つわけではありません。そのため、彼らが著した論書は完全ではなく、瑕疵(かし)があるのも不思議ではありません。
私は2016年から唯識を講じ始めました。当時は智慧がまだ浅く、唯識の法に通じておらず、ある人々から『成唯識論(じょうゆいしきろん)』などの論書から抜粋した唯識に関する質問を受けることがありました。その頃はそれらの論書から離れて独自に思惟観行(しいかんぎょう)することが全くできなかったため、それらの見解を絶対的に正しいものとして回答していました。その後、次第に前後矛盾する点や自己矛盾する点が見つかり、それらを説明できなくなったため、徐々に元の論書を捨てて、自ら観行するようになりました。元々は『成唯識論』を全て解説するつもりでしたが、問題に気づいてからは、ごく一部の段落だけを解説し、それ以上は進めなくなりました。なぜなら、論書に沿って講じると誤りを犯し人を誤らせてしまい、論書に沿わないと論書に背いたと非難されるからです。どちらにせよ良い結果にはなりません。私が最初に講じた唯識の法義には、唯識論に従ったために誤りがある箇所が一部あり、書籍を整理する際には可能な限り修正しました。
古の唯識論には、意根には捨受(しゃじゅ)しかないと記されています。私は当時から疑問に思っていました。なぜなら、身心の受(じゅ)を観察すると矛盾点や実際と合わない点が見つかるからです。もし意根に捨受しかなければ、人の心はどれほど平穏で平静でしょうか。ほとんど如来蔵(にょらいぞう)と同じで、感情がなく、争わず、奪わず、反撃せず、復讐せず、喜びも嫌悪もないでしょう。そのような心であれば、修行する必要があるでしょうか?悪業、ましてや重大な悪業を造ることができるでしょうか?
意識心(いしきしん)の行いは表面に浮かんでおり、心が細やかであれば観察することができます。なぜなら、観察は最初は意識が行い、意識は自分自身を観察し理解しやすいからです。だから意識は浅く、表面に浮かんでいると言われます。一方、意根は意識にとっては別の識であり、意識自身とは異なるため、観察や理解は容易ではなく、非常に困難です。初禅定(しょぜんじょう)や甚深な唯識の智慧がなければ、意根の心行を現前(げんぜん)に観察することはできません。開悟(かいご)した後でも、第八識(だいはちしき)の粗い運行は現前観察できますが、意根の心行は観察できません。ですから、意根が簡単に観察でき、理解しやすいと思ってはいけません。
清風(せいふう):随煩悩(ずいぼんのう)の昏沈(こんじん)や掉挙(じょうこ)などは、有覆無記性に分類すべきだと思います。無記であっても、聖道(しょうどう)を妨げるからです。十の小随煩悩(しょうずいぼんのう)は煩悩の習気(しゅうけ)に属し、第七識に随眠(ずいみん)し、地上菩薩以降でなければ断つことができません。これらは全て有覆無記性に分類すべきです。先日、ネット上である狂人がこれらの点を盾に師の説法を攻撃し、第七識の全ての煩悩を有覆無記と見なしていました。
『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』では、我見(がけん)、我愛(があい)、我慢(がまん)、我癡(がち)を有覆無記性と定義しているようです。例えば我見は、自分の身体を本当の自分と見なすもので、これは邪見(じゃけん)であり、単なる誤った見解です。これが聖道を妨げ、我見を断つことを阻むため、有覆無記と理解できます。しかし、我慢については、例えば仏教を信じない人が仏典を見て理解できず、騙しだと思うことがあります。まるで自分が仏陀よりも優れているかのようです。現代でもそのような人は少なくありません。これには我慢が含まれており、これは仏陀や仏法を誹謗(ひぼう)するものですから、無記ではないはずです。ですから、有覆無記は煩悩の習気に当てはめるのが適切だと思います。
点评:随煩悩は煩悩心所法(ぼんのうしんじょほう)です。煩悩である以上、それは悪(あく)であり、善(ぜん)でも不善不悪(ふぜんふあく)でもありません。どうして無記であり得るでしょうか?このような平易な名詞概念は非常に理解しやすく、混同されるはずがありません。煩悩であれ煩悩の習気であれ、全て悪であり、善でも無記でもありません。同様に、慢(まん)や癡(ち)は煩悩心所法であり、悪であって、善でも無記でもありません。総じて言えば、意根は全ての善悪の心所法を有しており、無記という一つの属性だけを持つわけではありません。
如涛(じょとう):ほとんどの人はただ書物を暗記するだけで、情執(じょうしゅう)が深く、先入観が植え付けられると、それを覆すのは非常に困難です。孟子(もうし)は「書物を全て信じることは、書物がないのと同じである」と言いました。これは人々の書物への迷信を打ち破るためのものです。仏法における「法に依って人に依らない」という原則も、個人的には、人間性のこの大きな弱点を狙って設定されたものだと感じます。
2
+1