衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年05月08日    金曜日     第1開示 合計4705開示

誰が真に因果を信受することができるのか?

本当に因果を信じる者は、因果の一部を実証した人である。一般の人は誰も因果を実証したことがないので、たとえ因果を信じていても、半信半疑であり、完全には信じていない。いわゆる「信が足りない」とはこのためである。たとえ悟りを開いた菩薩であっても、因果を真に実証したわけではなく、因果に対してなお疑いを抱いている。唯識種智を具えて初めて、一切の法の前因后果に対して一定の現量の観察を持ち、因果の関係をはっきりと見て、初めて本当に因果を信じることができる。多くのことは、やるべきことはやり、やるべきでないことはやらず、疑いや僥倖の念がないのである。しかし、これも因果の一部を実証したに過ぎない。因果を完全に実証し、一切の因因果果をはっきりと見通すことができるのは諸仏だけであり、菩薩たちはまだ及ばない。

もし肉食者に肉を断つよう勧めると、「大丈夫、心配するな、この借りは私が背負える」と言う人がいるかもしれない。しかし、あなたが背負えても、食べられる側の衆生は背負えないのである。彼らは極めて大きな苦しみを受けている。心ある人は、自分自身のことだけを考えるのではなく、衆生が耐えられるかどうか、衆生がどんな思いをしているかを考えなければならない。誰もが命を惜しむ。あなたの命は命であり、他の衆生の命は命ではないのか?衆生の思いを考慮せず、衆生が苦しんでいると知りながら、なお衆生を傷つけるのは、これこそ悪である。悪を断ち善を修めるということを成し遂げておらず、合格した仏弟子とは言えない。

肉食について、単に因果の観点から肉を断つのであれば、これもまた自己中心的で利己的である。将来の業報や負債の問題を考慮して、やむを得ず肉を断つのである。たとえそれが正しいことであっても、その人が慈悲の心を持つ菩薩であり、菩薩の心性を持つとは言えない。なぜなら、その人は衆生や畜生、相手の立場から肉食の利害関係を考慮しておらず、自分の心を衆生の心と比較しておらず、自分を基準に相手を推し量っておらず、相手の身と心の感覚や利益に身を置いて考えておらず、衆生の五陰の感情や苦しみを観察しておらず、衆生の命の価値を大切にしていないからである。要するに、衆生に対する慈愍の心がなく、天を悲しみ人を哀れむ心がないのである。そうであれば、肉食の者は菩薩の心性を備えておらず、衆生を救済する菩提心や大悲心を発していないのである。

声聞や縁覚のように、彼らは解脱を志すが、それは個人の苦しみに基づくものであり、その苦しみを広く衆生にまで広げていない。だから声聞や縁覚が生死の苦しみから解脱できたとしても、それは自己中心的で利己的なのである。菩薩は解脱を求めるが、涅槃には入らず、自分を基準に相手を推し量り、衆生も苦しんでいると考え、ついでに衆生を導いて共に解脱の道を歩む。これこそが無我無私の大悲の菩薩心なのである。

声聞や縁覚は解脱を求めるために、因果に束縛されて三界に留まらないように、厳格に戒律を守り、少しも犯さない。たとえ小戒を犯せば衆生を救えるとしても、衆生のために戒を犯すことはない。このような持戒は純粋に個人のためであり、衆生のためではない。これは利己的な行為であり、菩薩行ではない。一方、菩薩は衆生を救済するために、いかなる代償も惜しまず、たとえ戒を犯して地獄に堕ちても、心から甘んじて受ける。衆生が利益を得るならば、自分が因縁の果報を受けることや、自分の道業に影響があっても気にしない。これこそが真の大悲心の菩薩であり、衆生の真の依止処なのである。

現量の因果が示されて初めて、衆生は一時的または永久的に因果を信受することができる。二十年前、東北に蛇を捕る者がいた。長期間蛇を捕っていたため、悪業が熟し、悪報が現前した。彼の皮膚には蛇のような皮膚が現れ、しばしば剥がれ落ちては再び生え変わり、痒くてたまらず、顔もだんだん蛇の頭のようになった。殺された蛇が彼の体に取り憑き、全身が麻痺して動けなくなった。私の母とその仏友たちが彼を訪ね、仏法と因果について説き、彼と殺された蛇のために仏事を行い、超抜した。最後に彼は「もう二度と殺生はしない」と述べた。因果はこれほど大きく、これほど速いものである。この一生で教訓を得て、もう殺生はしないだろうが、来世ではこのことを忘れてしまい、現量の果報を見ることができなければ、殺生を断つことができるだろうか?それは難しい。人は往々にして「傷が治れば痛みを忘れる」ものであり、「食べたことは覚えていても、打たれたことは忘れる」ものである。修行である程度の境地に達し、煩悩を断って初めて悪業を造らないのであり、そうでなければ避けられないのである。

もう一つの現実的な因果の例がある。二十年前、東北の長春に寺院を建てようとした出家の師匠がいた。寺院を建てるために、山を切り開かなければならなかった。山を開く際に火薬で岩や土を爆破し、ブルドーザーで平らにした。すると、山を開き始めて間もなく、この師匠は病に倒れた。何が原因だったのか?それは、山の中には多くの生き物、特に蛇が住んでいて、火薬でそれらの生き物が殺されてしまい、死んだ後にこの師匠に命を償うよう求めてきたからである。特に蛇は彼を執拗に苦しめ、多くの蛇が彼に纏わりつき、彼は数年間入院治療しても完治せず、最終的に亡くなった。治療費も莫大なものだった。この寺院の建立は何と割に合わないものだったか。血なまぐさい始まりであり、死をもって終わったのである。出家の師匠の中には、寺院を建てた後に体調を崩す人がいるのを聞いたことがあるが、その中には殺業が原因のものもある。殺業を造らないようにするには、山を切り開いたり土を掘ったりする前に、念佛や呪を唱えて山の生き物たちに知らせ、彼らに移動して避難する時間を与えれば、これほど血なまぐさいことは起こらないのである。

——生如法師の開示
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「如春」観無常偈

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意根は有覆なるも善悪無記の三属性を有す

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