六七識は因位において転じ、五識と八識は果位において円満となる。これは、六七識が修行の過程で絶えず転じていく必要があるのに対し、五識と八識は最後に成仏する時に初めて転じ、円満になるという意味である。過程は因位であり、成仏は果位である。この因から果に至る過程において、六七識の根本的な転じ方は三度経験し、漸進的な転じ方は無数に経験する。なぜ六七識は無数の漸進的な転じ方を経て、ようやく智慧が円満となり成仏できるのだろうか。それは、六七識が一切の無明の煩悩を具足しており、修行において無明を除き煩悩を断ち切り、心の汚染性を絶えず浄化すると同時に、福徳と清らかな智慧を絶えず増す必要があるからである。
このことから、六七識は煩悩性を具足し、最終的には清浄性、菩提性、涅槃性をも具足することが分かる。これは、六七識が善悪の心所法を具足していることを示しており、両方とも無記性のみを有するわけではない。そうでなければ、これほど長い時劫にわたって修行することはできず、修行の必要もないかもしれない。
では、なぜ五識は修行の過程において絶えず転じないのだろうか。それは、五識が完全に意根に付属し、意根が塵境を了別し処理するための道具であり、意根に完全に奉仕し従属し、独自性を持たないからである。したがって、五識には善悪性がなく、善を修め悪を断つ必要がないため、心性に転じはなく、転じる必要もない。しかし、六七識の福慧が不具足で階位が低いため、それらが備える五識という道具の機能も低く、なす事業は完全で円満ではない。成仏に臨む時、六七識の福慧が円満となり、功徳が円満となり、心性が円明となる。それらが使用する付属の道具は自然に最高等級に昇格し、六七識が一切の事業を円満に成就し、障害がないように補助する。このように、五識は意根の功徳と対応し合致する必要があり、五識の識性が成所作智性に転じ、功徳は非常に殊勝となる。
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