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日常法話

2026年05月11日    月曜日     第1開示 合計4708開示

金剛経講解.一切法皆是仏法

究竟無我分第十七原文:须菩提。如来所得。阿耨多罗三藐三菩提。于是中无实无虚。是故如来说。一切法皆是佛法。须菩提。所言一切法者。即非一切法。是故名一切法。

解釈:須菩提よ、如来が得た阿耨多羅三藐三菩提の法は、実際には実有ではなく、また虚妄でもなく、虚実の二者が結合して、ともに菩提の大道を成しているのです。それゆえ、如来は一切法はみな仏法であると説かれました。この一切法の中には実有もあれば虚もあり、真偽入り混じって一切法を構成しているのです。須菩提よ、私が説く一切法とは、本当に何かがあるからこそ一切法と呼ぶのではなく、一切法もまた本当に実有の一切法ではないのです。それゆえに仮に一切法と名付けるのです。

なぜ仏は、如来が得た阿耨多羅三藐三菩提の法は無実無虚であり、実とは言えず、虚とも言えないと説いたのでしょうか。成仏というこの法は虚実の結合であり、虚法だけでは虚法は成立せず、実法だけでは実法に縁と動力がなく、何ひとつ成すことができず、何も成し遂げられないからです。この実法とは、五蘊世間の万法を生じさせる根源、すなわち法身仏である如来蔵(tathāgatagarbha)・無垢識(amala-vijñāna)です。そして虚法とは、無垢識が変現した五蘊世間の法です。ならば私たちは、成仏というこの法は、如来蔵と五蘊の身が共同して和合して成るものであると知ります。もし成仏というこの法を虚妄だと言うなら、しかしそれはすべて如来蔵のなすところであり、すべて如来蔵の性です。もし成仏というこの法を実だと言うなら、しかしそれには仏の虚妄なる五蘊の参与と働きがあり、五蘊を離れては仏の姿を見出すことができず、五蘊を離れては、もはや仏とは称されないのです。それゆえ、如来が得た阿耨多羅三藐三菩提の法は、無実無虚なのです。

なぜ一切法は、すなわち一切法に非ず、それゆえに一切法と名付ける、と言うのでしょうか。表相上の一切法は、いずれも自ら存在する自体性を持たず、すべて如来蔵が種々の縁に順じて変現したものであり、空花の幻影のように空幻で実ならないからです。それゆえ、一切法を実有の自体性を持つ法と見なしてはならないのです。一切法は、現象の上では存在しているように見えるので、それならばこれらの法にみな仮名を付けて、衆生の間の言語による交流・意思疎通と、世間で生き延びるための必要に資するようにすればよいのです。

たとえば、戒定慧の法を修学することは、五蘊の身心の表面の活動であり、五蘊の身心には自体性がなく、すべて如来蔵がその背後で働いて現した機能・属性ですから、仮に修戒定慧と名付けます。経典を読誦することも、五蘊の身心の表面の活動であり、自体性がなく、仮に読誦経典と名付けます。悪口・辱罵は、五蘊の身心の行為造作であり、表面の現象であって、人の目を欺くだけのものですから、仮に悪口と名付けます。明心見性は、五蘊の身心の智慧の境界であり、自体性がなく、仮に明心見性と名付けます。思惟観行 (vipaśyanā-caryā) は、五蘊の身心の活動であり、虚妄で生滅する法であり、陽炎のように実ならず、仮に思惟観行と名付けます。行住坐臥は、五蘊の身の行為造作であり、自体性がなく、幻化として有るものであり、仮に行住坐臥と名付けます。要するに、一切法はみな単なる仮名にすぎないのです。

原文:须菩提。譬如人身长大。须菩提言。世尊。如来说人身长大。即为非大身。是名大身。

解釈:須菩提よ、たとえば人身の長大というのは、一切法の中の一法です。須菩提が答えて言いました。世尊よ、如来が説かれる人身の長大の相は、本当に大身なのではなく、ただ大身という名前を付けたにすぎない、と。

なぜ如来の説かれる大身は、すなわち大身に非ず、なのでしょうか。人の身体の大小の相貌は、如来蔵が幻化した仮相にすぎず、実質のある大小の相はないからです。いわゆる大身の相とは、如来蔵が四大の種子を積み重ねて作り上げた一つの幻相であり、その大小長短は、いずれも相対的に説かれるものであって、必ず何かの物を参照し、比較の対象があって初めて、大小長短と名付けることができるのです。そしてその比較の対象となる物もまた真実ではなく、依拠性も比較可能性もありません。それゆえ、人身の長大とは、すなわち大身に非ず、名前の上の大身であり、実質のある大小という説はないのです。

原文:须菩提。菩萨亦如是。若作是言。我当灭度。无量众生。即不名菩萨。何以故。须菩提。实无有法。名为菩萨。是故佛说。一切法无我无人。无众生无寿者。

解釈:須菩提よ、菩薩もまたこのようであり、心地の中に一つの法相も執著せずに菩薩行を行ずることこそが、真の菩薩なのです。もし一人の菩薩が諸々の衆生を度したいと発願し、「私は無量の衆生を滅度すべきである」と言うなら、その菩薩はまだ真の菩薩ではなく、まだ実相を証得しておらず、実相の中に入っていないのです。なぜこのように言うのでしょうか。須菩提よ、実際の理地の中には、菩薩と称し、私と称しうるような法は何もないからです。それゆえ、仏は一切法の中には我なく、人なく、衆生なく、寿者という四相がないと説かれたのです。

真の菩薩とは、すでに実相を証得した菩薩であり、実相を証得した菩薩の心の中には、もはや世俗の相を執取すべきではありません。いわゆる世俗の相とは四相のことであり、まず菩薩は我相を持つべきではなく、それならば菩薩相を持つべきでもなく、また度される衆生の相を持つべきでもありません。これらの相は五蘊の相であり、いずれも如来蔵が幻化した仮相であって、実有の法ではなく、まるで空の白い雲が幻化した猫や犬の姿のように、把捉すべき真実の猫や犬はなく、みな白雲の相なのです。真の菩薩は、菩薩相を執取すべきではなく、我相を執取すべきではなく、衆生相を執取すべきではありません。しかし、なお私が無量の衆生を度すという心を持つのではなく、無心でこれらの菩薩行を行ずることこそが、真の菩薩なのです。

原文:须菩提。若菩萨作是言。我当庄严佛土。是不名菩萨。何以故。如来说庄严佛土者。即非庄严。是名庄严。须菩提。若菩萨通达。无我法者。如来说名。真是菩萨。

解釈:須菩提よ、もし一人の菩薩がこのように言うなら、「私は仏国土を荘厳すべきである」と、それは真の菩薩ではありません。なぜこのように言うのでしょうか。如来の説かれる仏国土を荘厳するという行為は、本当に荘厳すべき仏国土があるのではなく、本当に荘厳という事があるのではなく、ただ仮に仏国土を荘厳すると名付けるだけなのです。須菩提よ、もし一人の菩薩がすでに無我の法を通达し、諸法無生を証得しているなら、如来ははじめて、この名付けて菩薩という者を真の菩薩だと説かれるのです。

菩薩が三大無量数劫にわたって菩薩道を修行し、いったいどのように仏国土を荘厳するのでしょうか。一人ひとりの菩薩の修行は、すべて身口意行の造作を通じて実行されるものであり、菩薩のほんのわずかな善法の修行、善業の累積は、いずれも仏国土を荘厳しているのです。ならば仏国土の荘厳とは、菩薩の身口意行を通じて荘厳されるものです。なぜすべての菩薩行は、いずれも仏国土を荘厳しているのでしょうか。私たちは、仏国土がどこから来たのか、どのように現れるのか、仏国土にはなぜ違いがあるのかを知るべきです。

菩薩が三大無量数劫の修行によって仏道を成就して初めて、無数の仏国土を現起することができます。これらの仏国土は、いずれも仏の無垢識の中から変現されたものであり、無垢識が仏の善業の種子に基づいて変現したものです。ならば善業の種子はどこから来たのでしょうか。もちろん、仏が学仏して菩薩となったときから修行を始め、修み得た種子が点々と如来蔵の中に保存され、そして如来蔵が種子に依って現起させた仏国土なのです。

菩薩の修行には、大いなる清浄 (viśuddha/pariśuddha) の願を発すること、勤めて戒定慧を修め、貪瞋癡を熄滅し、一切の仏法を読誦受持し、菩薩の六度を修行し、煩悩を除去し、無明を滅除し、染汚の種子を滅除し、清浄の種子を貯蔵し、最後に転識成智を成し、大円鏡智 (ādarśa-jñāna) を成就し、無量の仏国土を変現し、広く無辺の衆生を利益することが含まれます。そして菩薩は修行の過程において、願力の違い、具体的な行持の違いにより、その業種も異なり、それゆえ成仏のときに変現する仏国土も異なるのです。それゆえ、菩薩の修行のすべての善業行は、いずれも仏国土を荘厳しているのであり、いずれも五蘊の身心の行為造作であり、五蘊の身心は幻化で実ならないのです。それゆえ、仏国土を荘厳するとは、すなわち荘厳仏国土に非ず、仮に荘厳仏国土と名付けるのです。

最後に、世尊は総括して、もし一人の菩薩が無我の法を通达できるならば、それこそが真の菩薩である、と説かれました。なぜこのように言うのでしょうか。無我の法を通达した菩薩は、次第に一切法を通达するようになるからです。一切法はいずれも五蘊の我を中心として展開されるものであり、五蘊の我がなくなれば、一切法もなくなるのです。五蘊の我は実ならず、一切法はいずれも実ならず、五蘊の我に実質がなければ、一切法にも実質がないのです。それゆえ、菩薩が一切法無我を通达した後には、ますます深い無生法忍の智を証得し、その菩薩の果位は地地に増上し、その道種智が円満した後には、一切種智 (sarvākārajñatā) となり、仏道もまた円満するのです。

仏は五眼六通を具えているため、一切法を徹見し、一切衆生を徹見することができ、すべての衆生の心を、如来は悉く知り悉く見ます。如来は衆生を見ることができるだけでなく、衆生の如来蔵の心をも見ることができ、それによって衆生の心を知るのです。そして衆生の現在心、過去心、未来心は、いずれも得ることはできません。生滅幻化のものであり、久しく長くはありえないからです。


——生如法師の開示
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