本当に因果を信じる者は、因果の一部を実証した者である。一般の人は因果を実証したことがないため、たとえ因果を信じるとしても半信半疑であり、完全に信じることはできない。いわゆる信が足りないとはこの理由による。悟りを開いた菩薩でさえ、因果を真に実証しておらず、因果に対して迷いがある。唯識の種智を具えて初めて、あらゆる法の前因後果について一定の現量観察ができ、因果の関係を明らかにして、初めて真に因果を信じることができる。そうなれば、なすべきことは行い、なすべきでないことは行わず、迷いや侥幸はない。しかし、それも因果の一部を実証したに過ぎず、因果を完全に実証し、あらゆる因因果果を見通せるのは諸仏のみであり、菩薩たちはまだ及ばない。
肉食者に肉を断つよう勧めると、「大丈夫、心配するな、その借りは私が負える」と言う者もいる。しかし、あなたが負えても、食べられる側の衆生は負えない。彼らは極大の苦しみを味わっているのだ。心ある者は、自分自身だけを考えるのではなく、衆生が耐えられるかどうか、衆生の気持ちはどうかを考えねばならない。誰もが命を惜しむ。あなたの命は命であり、他の衆生の命は命ではないのか?衆生の気持ちを考えず、衆生の苦しみを知りながら、なおも傷つけること、これが悪である。悪を断ち善を修めるということが十分にできておらず、それでは仏弟子としてふさわしくない。
肉食について、単に因果の観点から肉を断つのであれば、それもまた自己中心的である。将来の業報や負債の問題を考慮して、やむを得ず肉を断つのであり、たとえそれが正しい行いであっても、その人が慈悲の心を持つ菩薩であり、菩薩の心性を有するとは言えない。なぜなら、その人は衆生や畜生、相手の立場から肉食の利害を考量しておらず、自分の心を衆生の心と照らし合わせておらず、己をもって相手に推し量っておらず、相手の身心の感覚や利益に身を置いて考量しておらず、衆生の五陰の感情や苦しみを察しておらず、衆生の命の価値を大切にしていないからである。要するに、衆生に対する慈愍がなく、天を悲しみ人を憐れむ情がない。そうであれば、肉食者は菩薩の心性を備えておらず、衆生を救済する菩提心や大悲心を発していない。
声聞や縁覚のように、彼らは解脱を志すものの、それは個人の苦しみに基づいており、その苦しみを広く衆生に拡げていない。それゆえ、声聞縁覚が生死の苦しみから解脱できたとしても、自己中心的である。菩薩は解脱を求めつつも涅槃には入らず、己をもって人に推し量り、衆生もまた苦しんでいることを思い、共に解脱の道を歩ませる。これこそが無我無私の大悲菩薩心である。
声聞縁覚は解脱を求めて、因果に縛られて三界に留まらないように、厳格に戒を守り、少しも犯さない。たとえ小戒を犯せば衆生を救えるとしても、衆生のために戒を犯すことはない。このような持戒は専ら個人のためであり、衆生のためではなく、利己的な行為であり、菩薩行ではない。一方、菩薩は衆生を救済するために、いかなる代価も惜しまず、たとえ戒を犯して地獄に落ちても、心から甘んじて受ける。衆生が利益を得るならば、自ら因縁果報を受け、自身の道業に影響が及ぶことさえ気にしない。これこそが真の大悲心の菩薩であり、衆生の真の依り所である。
現量の因果が示されて初めて、衆生は一時的または永続的に因果を信受できる。二十年前、東北に蛇を捕る者がいた。長期間蛇を捕ったため、悪業が熟し、悪報が現れた。彼の皮膚は蛇のような皮膚となり、しばしば剥がれ落ちては再び生え、痒みは耐え難く、顔つきも次第に蛇の頭のようになった。殺された蛇が彼の体に取り憑き、全身麻痺を引き起こし、動けなくなった。私の母とその仏友たちが彼を見舞い、仏法と因果について説き、また彼と殺された蛇のために仏事を行い、供養と超度をした。最後に彼は今後一切殺生をしないと誓った。因果がこれほど大きく、これほど速やかで、この世で教訓を得た以上、再び殺生はしないだろう。しかし、後の世でこのことを忘れ、現量の果報を見ることができなければ、殺生を断てるだろうか?それは難しい。衆生は往々にして、傷が治れば痛みを忘れ、食べたことは覚えても罰は覚えない。修行である程度の境地に達し、煩悩を断ち切って初めて悪業を造らなくなる。そうでなければ、免れることは難しい。
もう一つの現実の因果の事例がある。二十年前、東北の長春に寺を建立した出家の師がいた。寺を建てるために山を切り開き土を掘らねばならなかった。開山の際に火薬で岩や土を爆破し、ブルドーザーで平らにした。すると、開山して間もなく、この師は病に倒れた。何が原因で倒れたのか?元々、山の中には多くの生き物が住んでおり、蛇も含まれていた。火薬を使用した際にこれらの生き物は皆死に、死んだ後、この師に命を奪った報いを求め、復讐したのである。特に蛇類は彼を許さず、多くの蛇が彼に纏わりつき、彼は数年間入院治療したが治らず、最後には亡くなり、治療に多額の金を使った。この寺の建立は何と無価値なことか。血にまみれて始まり、死で終わったのである。私は、寺を建立した後、体調を崩す出家の師が少なくないと聞いたが、その中には殺生の業因がある。殺生の業を造らないためには、山を切り開き土を掘る前に、念仏や呪文を唱えて山の生き物に知らせ、彼らに一定の期間を与えて移動し避難させれば、それほど血なまぐさい出来事は起こらなかっただろう。
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