如春:今日、自分の心に煩悩が生じているのに気づきました。全身の毛孔が開き、筋肉が硬直し、心臓が締めつけられ、怒りの火が込み上げ、頭部が緊張してふらつくのを感じました。さまざまな反撃の方法が頭の中で素早く形成され、まるで戦いを構える雄鶏のようでした。私はこういう自分がとても好きになれず、急いで座り、机に伏して、無理やり自分を冷静させようとしました。
講評:これは事に遇して瞋を生じた際の外在的な現れです。意識が瞋ったのか、それとも意根が瞋ったのでしょうか?瞋を起こしたとき、全身の毛孔が開く、つまり産毛が逆立つのですが、なぜ逆立つのでしょうか?意根の心の中の気が全身の気を外へ向かって突き進ませ、産毛を逆立たせるからです。このことは意根だけが行う権限を持っており、意識にはできません。意根は脳の中枢神経系を制御することによって全身を制御し、さらには全身の細胞一つ一つや毛孔さえも意根は動員でき、全身の気息や血脈も意根が動員できるのです。それゆえ、意根に喜怒哀楽の情緒があるときは全身がそれに呼応し、情緒を顕現させます。ならば意根には当然、瞋心所法があり、一切の煩悩があり、一切の善悪の心所法があるのです。
筋肉の硬直は、意根が無意識に神経を張り詰めている現れです。心臓の締めつけ感は、意根が心臓を制御している現象です。瞋心は火であり、心臓から頭部へ向かって運行するので、怒りの火が込み上げます。頭部が緊張してふらつくのは、意根の瞋が気血の正常な流通を抑制し、頭部に供給される気血が不足することによって生じるのです。さまざまな反撃の方法が頭の中で素早く形成されるというのは、ここには独頭意識が考え出した反撃の方法がある可能性もあり、意根が独頭意識に考え出させ、それを採用して反撃の準備をしたのです。意根の瞋がどれほど深刻で、瞋るときにどんなことをしでかしかねないかがわかります。これは無始劫以来の意根の我性によって形成された瞋心であり、誰も自分の利益を動かすことは許されず、さもなければ瞋を生じて戦いを起こし、これによって悪業を造り、さらに悪報を受けるのです。無始劫の中でずっとこのように続いており、修行しなければ、このまま続いていくでしょう。
如春:私は自分に問いました。今、何があなたを煩悩に縛りつけているのか?自心か、事柄か、他人か?その本質は何か?あなたは今、想蘊と受蘊にしっかりと捕らえられている。こんなやり方はだめだ。五蘊の虚妄を見破る能力はないけれど、こうして無力に抵抗せずにいるわけにもいかない。そこで自分の心を瞋怒の煩悩から引き離し、心のあり方を調え直しました。他人が欲しがるなら、分けてあげよう。不合理なら不合理でも仕方がない。大したことではない。人に善く接しよう。悪縁を結ぶのを避けよう。もうやめにしよう。こうしたものは生まれ持ってきたのでもなく、死に持って行くのでもない。万里の長城は今も残っているのに、かつての秦の始皇帝の姿は見えない。こんな些細なことで修行を遅らせ、心にしこりを作るのはあまりにも割に合わない。こうやって自分を諭しているうちに、体全体がほどけていきました。人に善く接する心を根本に、もうこだわらないことにしたのです。
講評:この内容は、意識が意根を諭し導く過程です。明らかに独頭意識は道理をわきまえており、無瞋であり、学んだ道理をもって意根を開導し、瞋心を捨てさせ、因果を明らかにさせました。意根はこれを受け入れ、心開意解し、思い切って瞋念を放棄したのです。こうして無瞋の独頭意識によって正方向に薫染されました。意根が一度こだわりを放棄すれば、執念を手放し、全身が緩み、気血は正常に戻ります。人が長期にわたって瞋を生じ怒りを動かせば、気血が凝滞し、身体に問題が生じ、寿命にも影響します。修行の過程とは、まさにこのように正しい道理で自心を開導することです。修行しなければ、意根は闘鶏のようにしばしば戦いに赴き、悪業が絶えず、悪報も絶えないことになるでしょう。
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