如春:ある期間、家族の入院に付き添っていたことがありました。同室だったのは二人の退職した幹部で、一人は気管切開の手術を受けており、喉に二本の管が装着され、一本は呼吸用、もう一本は食事用で、大小便も自分では処理できず、夜中にはいつも痰で呼吸が詰まってしまい、吐き出すことも飲み込むこともできず、必死に咳き込み喘ぎ、窒息しそうになるほどでした。見ているだけであまりにも苦痛でした。このとき、たとえ銀行に多くの預金があり、高い地位、権力、名声、才能、優秀で仲睦まじい眷属などがあったとしても、病気、苦痛、老いと死の前で何の役に立つのでしょうか?これらの苦難を免除できるでしょうか?彼は金銭、地位、成功、愛情などを無常という大鬼と交渉して、一日でも長く生き、少しでも苦しみを減らすことができるでしょうか?もちろんできません。
もう一人の患者はパーキンソン病で、生活はほぼ自分ででき、自分で食事をしたりトイレに行ったりできますが、付き添う家族は非常に苛立ち、すぐに彼を罵ったり嫌ったりします。彼は食事の際、咀嚼しながら口の端から粘り気のある液体を流し、トイレもいつもきれいに処理できません。人間とは一体何なのか、私たちの皮袋の中には一体何が詰まっているのか考えてみてください。このように見るに耐えない臭い皮袋を、私たちはまだとても可愛らしく高貴なものだと思い、自他の五陰を貪り執着し、そのために功業を立て、あらゆる名相を駆使してそれを威風堂々と殊勝なものにしようと全力を尽くすとは、実に愚痴で恥ずかしいことです。
評: さまざまな現象から見ると、色身は確かに清浄ではありません。清浄な四大の種子が、清浄でない業種に従って、さまざまに組み合わされて清浄でない色身を作り出し、さらにそれを貪り恋い慕うのは、実に愚痴です。一生をかけてこの清浄でないもののためにあまりにも多くを造作し、付出したものもあまりにも多く、人の大部分の時間はこのために忙しく、とっくに厭きるべきものです。道業のためにこの色身を捨てないでおくことはできますが、ただ使うだけで、それを利用して道を修め、福を修め、善を修めて徳を立て、さまざまな功徳を成就させるのです。それ以外には本当に大した意味はありません。ところが多くの人はこのものをとてつもなく執着しており、六道の衆生は皆このものを執着して、一時的に使えばそれでいいと知らず、執着することは無用で必要のないことだと知りません。執念があれば正念を失い、それは邪知邪見であり、惑業であり、生死流転の苦を招くのです。仏在世のとき、一群の蟻を指して言われました。この蟻たちは自分の色身を執着するがゆえに、七尊の仏が出現しても、なお蟻の身であると。執着と貪愛が自分を害して、いくつの無量劫を経てもより高級な生命へ進化できず、まして解脱など論外であることが分かります。
私たちは今、大小乗の解脱の法に出会い、信受し修行することはできるのですが、あの執念は依然として根深く、わずか一毫たりとも動かすことができません。衣食住の用や行において色身に対して非常に執着し、貪り惜しみ、宝として愛し重んじ、生活水準を少しも下げようとせず、少しでも享受を減らそうとせず、さもないと損をしたと感じます。自分が時々刻々損をし、大きな損をしているのに知らず、自分がどれほど愚痴であるかにも無感覚で、気づく力がありません。
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