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日常法話

2026年04月12日    日曜日     第1開示 合計4679開示

意根の思量(manasikāra)の過程と状態を観察する

如春:一昨日の夜、寝る前に思惟しました。「なぜ『苦海無涯、回頭是岸』なのか?」と。思惟しながら書き、過程はかなり長かったです。最後の結論は、世間法の中には真の楽はなく、最後はすべて苦であり、さまざまな苦が苦海を形成している、これを苦集とも呼ぶ、というものです。世間法はすべて変化無常であって、真実の法ではありません。もし私たちがその虚妄を見抜くことができず、貪執してその中に沈溺すれば、それが苦海無涯です。逆に、私たちが仮を借りて真を修め、心を回らせて道に向かい、本源に回帰することを、回頭是岸と呼びます。

この思惟と書く過程では、大部分は意識が主導していましたが、意根も参与しているのを感じられました。書いているとき非常に流暢で、非常に集中していて、インスピレーションも湧き、身心が愉悦で、疲れを感じなかったからです。書き終わって時間を見るとすでに午前2時で、時間が過ぎるのがとても速かったです。書き終えて寝に行くと、まだ一筋の心念が吊るされているような感じがあり、睡眠が浅くなりました。

点評:もし過程が非常に専一であれば、意根が主導しているのであり、散乱心で行ったのであれば、意識が主導しているのです。専一に集中するため、インスピレーションが絶えず生まれ、身心が愉悦で、疲労を感じません。どの識が用功して思惟しているのか、どの識が主導しているのかを分別できれば、自分が今置かれている境界と修行の階層を判断することができます。

如春:朝の静坐のとき、頭の中に一句が浮かびました。「本より苦海涯なし、何ぞ回頭の岸を需(もち)いん」。おそらく意根が昨晩引き続き用功した結果だろうと思われます。このように理解してもよいでしょうか。先に意識が思惟したのは有為法であり、眠った後の意根の思惟は、その前の基礎の上に無為法の角度からの考察を加えたものだと。このようにして、意根は心が静かで遮礙が軽減された状況下では、意識より智慧があると言えるでしょうか。このような思惟は修行に役立つのでしょうか。最近、静坐のときの状態が不安定に感じられます。状態が良いときは身体全体が虚空中にいるように飄渺とし、状態が悪いときは両足が硬直して痛み、力が入りません。いくつか調整はしましたが、まだ問題の鍵となる点を見出せていません。

点評:先ほど言ったように、あなたは自分の意根と意識の状態を分別できておらず、誰が問題を思考しているのかがわからず、誤って意識の思惟が主導していると思い込んでいます。それはおそらく意根の思量(manasikāra/manana)が主導し、意識が補助しているのでしょう。寝る前に意根と意識は世間の有為法の苦について思考し、眠った後は意根が単独で大乗法の空を思量したのです。
あなたの言う状態の良し悪しとは、身体の気脈と禅定(じょう)の問題を指しています。気脈が通順であれば、身体は軽やかで高くなり、気脈が詰まっているところまで運行して通らなくなると、身体は硬直します。気脈が全身を運行するとき、通れば暢(とお)り、詰まれば痛みますが、いずれにせよ気脈が動いているのであり、積極的で向上的なシグナルなのです。

なぜ気脈が通暢なとき、身体が軽やかで高く感じられるのでしょうか。これは身体のエネルギーが気化する問題であり、四大が変化を起こす現象です。もともと身体の中にあった凝重なエネルギーが、修定(じょう)によって軽やかな気に変わり、上へ飄動するため、身体が高く軽やかに感じられるのです。エネルギーがさらに気化すれば、身体はさらに軽やかになり、さらに高くなり、天人のようになり、禅定も天人の禅定とほぼ同じようなものになります。

——生如法師の開示
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