衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年03月29日    日曜日     第1開示 合計4664開示

仏法の修学には次第がある

問:仏法において学ぶすべてのものは必ず実修の価値がなければならず、ただ理論だけを学んで修められなければ、受け継がれていくことはできません。法相唯識宗の修法には「五重唯識観」がありますが、これを修める人は非常に少ないです。なぜでしょうか?

答:どの法門を修学するにしても、すべては実証して智慧を増長し、解脱を得るためであり、それには実修が必要です。ある理論は単なる理論に過ぎず、実修を指導できず、実証もできません。そこに置かれているだけでは、ただの飾りであり、見せかけの飾りに過ぎません。法相唯識宗の修学は、世俗法における大学院生や博士課程のコースのようなもので、非常に深遠です。これは地に入る前の菩薩が修学し始める法門であり、普通の仏法学習者には仏法の基礎がなく、小乗で我見を断つことさえほとんど望みがありません。どうして修学して理解できるでしょうか?

ですから唐の時代に唯識宗はわずか二代で伝承が途絶えてしまいました。その理由の一つは、仏法学習者に基礎的な仏法の修証がなく、深遠な法相唯識をなおさら実修できなかったからです。このように理論と実践が乖離してしまい、唯識はどうして伝承されていくことができたでしょうか?地上の菩薩の証量がなければ唯識宗を伝承することもできません。ですから仏法は確かに階級があり、修行の次第があるのです。世俗法でさえこれほど浅はかなものでも小学校・中学校・大学と課程が分かれているのに、深遠な仏法はなおさら段階を分けています。成仏には三つの無量数劫の修行時間があり、前の基礎的な法を実証して初めて、後の仏法を実修することができます。まるで片方の足を前の段に踏み出してから、もう片方の足を上げて次の段に進めるようなものです。段階を飛び越えることはできず、そうしなければ転んでしまい、階段を上がることができません。

——生如法師の開示
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事緩則円の根本原理

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