衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2026年03月28日    土曜日     第1開示 合計4663開示

意根の思量は意識の思惟より更に究竟なり

如春:一昨日の夜、寝る前に思惟しました。なぜ苦海は涯てなく、振り返れば岸なのか?と。思惟しながら書き、その過程はかなり長かったです。最後の結論は、世間法の中に真の楽はなく、最後はすべて苦であり、さまざまな苦が集まって苦海を形成している、それは苦集とも呼ばれ、いずれも変化する、無常のものであり、唯一のものでもない、それなら真実の法ではない、ということです。もし私たちがその虚妄を見抜けず、貪執してその中に沈溺すれば、それが苦海無涯です。逆に、私たちが仮を借りて真を修め、心を回して道に向かい、本源に回帰することを、振り返れば岸なりと呼びます。

この思惟の過程では大部分は意識が主導していましたが、意根も参与しているのが感じられました。書いている時はとても流暢で集中しており、ひらめきもあり、身心は愉悦で、疲れを感じませんでした。書き終えて時間を見るとすでに午前2時で、時間が過ぎるのがとても速かったです。書き終えてから寝に行きましたが、まだ一筋の心念が吊るされているような感覚があり、睡眠が浅くなりました。

朝の静坐の時、頭の中に一句が浮かびました。「本より苦海の涯て無く、何ぞ回頭の岸を需んや」。これはおそらく昨晩、意根が引き続き用功した結果だと思われます。こう理解してもよいでしょうか。先に意識が思惟したのは有為法であり、眠った後、意根の思惟はその基礎の上に無為法の角度からの考察を加えたものであり、これによって、心が静かで遮碍が軽減された状況下では、意根は意識よりも智慧があると言えるでしょうか。このような思惟は修行に役立つのでしょうか。最近、静坐の時の状態が不安定に感じられます。状態が良い時は身体全体が虚空中にいるように漂い、悪い時は両足が硬く痛んで力が入りません。いくつか調整をしましたが、まだ問題の要点をまとめきれていません。

評: 思惟しながら書くということは、その中に専注の成分があり、意識の思惟と意根の思量 (manasikāra/manana) の両方があります。書くことは比較的遅いので、心を摂して専注しやすく、意根の心の中に滲み込みやすく、意根に思量 (manasikāra/manana) する機会を与えます。二識が一緒に思惟するほうが、意識が単独で思惟するよりも智慧があり、思惟が徹底しやすいのです。書いた後、意識は休息しますが、意根は休息せず、引き続き単独で思量 (manasikāra/manana) します。六識の妨げがないため、意根の思量 (manasikāra/manana) は比較的専注して効果があり、その結果、智慧が生まれ、問題を明瞭に徹底的に思惟し尽くします。意識が現れると、意識は意根の智慧の認知を明らかにし、意識も智慧が生まれたのです。

昼間活動している時の粗浅な思惟は意識のレベルでの思惟であり、夜座禅の時に問題を心に懸けて密かに思量 (manasikāra/manana) し、座禅が終わって問題を抱えたまま眠るのは、意根の深思です。朝起きると、何気なく問題の答えが自動的に分かりますが、これは意根が思量 (manasikāra/manana) した結果です。だから参究の時は、いつも意根が単独で参究するか、あるいは意識と共に参究するのであり、その結果、意根が我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断じて明心見性する時に、意識はその時点でこの部分の内容を知り、同じ智慧を得るのです。真の智慧、究竟の智慧の獲得は必ず意根の思量 (manasikāra/manana) によって得られるものであり、意識の智慧は同時かその後に得られるものです。だから意識が証果するという説はでたらめです。


——生如法師の開示
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